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マタイの福音書の恵み 159
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すべての召しは十字架を通して完成します |
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マタイの福音書の恵み 159
すべての召しは十字架を通して完成します [ マタイの福音書27章45~56節 ]
ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師
十字架から受ける衝撃 真に十字架に出会い、味わった多くの人々は、数万ボルトの電流に感電したような衝撃を受けます。第一に、神様の愛に対する衝撃です。私たちへの愛のゆえに、神様がご自分のいのちを捨ててくださったという愛に対する感動です。 私たちは、自分に対する親の愛を悟ったとき、感動します。また、子どもの自分への愛に気づかされる出来事があったとき、親は感動します。夫婦間や嫁姑間でも、そういった自分への愛に気づいて感動することがあります。小さな愛の感動でさえも人を変えます。 十字架の衝撃は、神様の愛に対する感動です。私たちは、十字架によって、私たちを愛されるがゆえに御子を十字架で死なせた神様の心を知ります。また、罪に対する衝撃を受けます。イエス様は、十字架につけられるとき、人類のすべての罪を負われました。一人の人の罪だけでも、どれほど多いか分かりません。それなのに、全人類の罪の重荷がイエス様の十字架上にあるのです。それで、十字架を見上げるとき、私たちは自分の罪による衝撃を受けます。 しかし、十字架にはことばがありません。静かに立っているだけです。イエス様は、裁判を受けられる時、何も言われませんでした。恨んだり不平を言ったりせず、静かに不法裁判を受けられました。十字架につけられた後、イエス様は少しだけことばを発せられましたが、それは恨み言ではありませんでした。最初の一言は「彼らの罪をお赦しください」というとりなしの祈りでした。十字架にはことばがありません。今も十字架は静かにポツンと立っています。しかし、十字架を見上げるすべての人に語りかけます。私たちの罪、私たちの良心、そして、私たちの人生について十字架は語り続けます。 では、人類のすべての罪を負われるイエス様の十字架を見ていた周りの人々の反応はどうだったでしょうか。
十字架を見ていた人々の反応 「そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。『この人はエリヤを呼んでいる。』そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした」(マタ 27:47~48)。 十字架につけられているイエス様のからだからは、水と血が流れていました。イエス様は、すさまじい苦しみの中で絶叫されました。それを見ていた人々は「今、イエスが言っていることを聞いていると、あまりにも苦しいから、旧約時代の力ある預言者だったエリヤを呼んでいるようだ。エリヤを呼んで、助けてもらおうとしているのかもしれない」と考えました。また別の人は、イエス様があまりにも苦しいので、大声で叫んでいるのだと考えました。それで、麻酔効果のある酸いぶどう酒を海綿に含ませて、イエス様の口に当てました。また別の人は、「ああ、エリヤを呼んでいる。本当にエリヤが来るかどうか、見てみよう」と嘲るような目で十字架を見上げていました。 これが、十字架の周りにいた人々の反応です。また、今日、全世界の大多数の人々が十字架を見るときの態度です。人はだれでも、何かを見るとき、自分の考えや経験したこと以上のことは受け入れることができません。十字架の周りにいた人々は、十字架のすぐ近くにいながらも、十字架を見ることができませんでした。教会に来て礼拝をささげる人の中にも、全く神様に会うことができずに帰って行く人がいます。礼拝をただ形式的にささげて帰って行く人がたくさんいるのです。 罪人はどんなに言い訳をしても、やはり罪人です。病人がどんなに着飾って化粧をし、高級車を乗り回したとしても、その人はやはり病人です。私たちがどんなにうわべを飾っても、自分の罪をなくすことはできません。信仰がなく、聖霊を経験したことのない人にとって、十字架は荒れ果てたゴルゴダの丘に立てられた一つの死刑の道具にすぎません。それは、恥辱の象徴であり、敗北と絶望の象徴にすぎず、それ以上の意味はない、ただの木の十字架なのです。 しかし、悔い改めた良心と、聖霊による感動を受けた人にとっては、十字架は生きて働く神様の救いの力に変わります。十字架自体は沈黙しています。しかし、十字架を見上げる人には、十字架は語り、働き、影響力を与え始めます。初めは静かに、そしてわずかに働くだけです。しかし、それはある時、波になり、暴風になって、私たちのたましいを粉々にするのです。自分のうちに隠れているすべての悪しき勢力の根を根本的に揺さぶります。これが、十字架です。皆さんは、このような力ある十字架を見上げていますか。十字架の声を聞いていますか。
本当に神の子であった イエス様が十字架で息を引き取られたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。これは、イエス・キリストの御名を呼ぶ者はだれでも、もはや山羊や子牛の血を借りなくても神様の御前に出ることができる道が開かれたことを表しています。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いたことは、死の力が倒れ、悪の勢力が崩れたことを表しています。眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返ったことは、復活を象徴しています。新しい天と新しい地、勝利の主、再臨の主が栄光に満ちて再び来られることを、人々に見せられたのです。このような光景を見たとき、人々の反応はどうだったでしょうか。一言で言うと、恐れと衝撃でした。人々の態度はすっかり変わりました。 「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。『この方は本当に神の子であった』」(マタ 27:54)。 ちょっと前までイエス様を嘲り、迫害し、無関心だった人々が、衝撃的な出来事の前で「ああ、この方こそ、本当に神の子であった」と告白しました。私たちのいのちが終わる日、もしかしたらこのように告白するかもしれません。
遠くから見ていた弟子たち では、イエス様の弟子たちはどんな反応を見せたでしょうか。 「また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである」(マタ 27:55)。 イエス様に仕えてきた人々、人間的に愛していた人々、イエス様と血を分けた母、兄弟たち、親戚、ガリラヤからついて来た大勢の女たちがいました。彼らは十字架までついてきましたが、「遠くから」見ていました。イエス様の弟子たちは、どこにいるのかも分からず、現れません。 イエス様を人間的に愛することと、聖霊によって愛することは、天地の差があります。みことばを見ると、イエス様の愛する弟子たち、兄弟たち、親に至るまで、キリストの十字架の意味が「分かった」という表現は見つかりません。イエス様が十字架で死なれた時、それが救いだと言った人は一人もおらず、よみがえられると宣言した人もいません。恐れと衝撃の中でただ震えていました。 「その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた」(マタ 27:56)。 ここで「いた」とは、「そこにいたが、十字架が分からなかった」という意味です。私たちが教会に行くかどうかよりも、私たちが十字架の前にひざまずいたかどうかが重要です。教会に長く通い、奉仕をたくさんしても、それは十字架と何の関わりもないかもしれません。十字架の前に涙を流したことのない人、「イエス様、私が死ぬべき十字架であなたが代わりに死んでくださいました!」と告白したことがない人は、イエス様を信じていると言えるでしょうか。 私たちは教会や伝統に慣れてしまうことがあります。教会の危機は、十字架の福音が分からず、宗教的な形式の中で慰めを受ける人が多くなることです。十字架の前で涙を流して泣き叫びながら、「私の主、私の神様」と告白する私たちになることを願います。
十字架と聖霊 では、イエス様の弟子たちは、いつ十字架が分かったのでしょうか。彼らには3度の機会がありました。1度目は十字架の現場です。しかし弟子たちは、そこにいませんでした。2度目は復活の現場です。復活されたイエス様が目の前に現れたとき、彼らの価値観、考え方がすべて揺さぶられました。しかし、残念なことに、復活を経験した彼らは衝撃は受けましたが、その後、再び漁をしに戻りました。彼らは十字架の力を経験しなかったのです。 では、彼らはいつ十字架の意味が分かったのでしょうか。それは、五旬節の日に聖霊が降臨された時です。その時から彼らは変わり始め、復活の力が現れ始めました。彼らは死を恐れなくなりました。彼らが祈ると、奇跡が起こりました。彼らが十字架の福音を説教すると、それを聞いた者たちが胸を叩きながら悔い改めるみわざが起こったのです。 ここで私たちは重要な主題を見出します。それは「十字架」と「聖霊」です。私たちすべてが十字架を体験し、聖霊を体験する恵みがありますように願います。
祈り 父なる神様、イエス様が十字架で死なれることによって、私たちは赦されました。その尊い十字架が私たちの救いの完成であることが分かりました。主よ、十字架の前で一度も涙を流したことのない人々に、聖霊を注いでください。十字架の前にいても悔い改めず、無感覚で心が頑なになっている私たちのたましいに、神殿の幕が裂け、地が揺れ動き、墓が開く奇跡が起こりますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
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