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マタイの福音書の恵み 157
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まことの愛は最後まで耐え忍びます |
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マタイの福音書の恵み 157
まことの愛は最後まで耐え忍びます [ マタイの福音書27章26~31節 ]
ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師
イエス様は、十字架につけられる前に予備的な刑罰を受けられました。 「そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した」(マタ 27:26)。 最初はむち打ちでした。ローマのむち打ちは苦痛の象徴です。革製の長いむちには、間隔をあけてとがった骨や金属が付けられていました。むちで打たれた罪人の背中は、皮膚が裂けて血まみれになります。打たれて気絶したり、気が狂ったりする人もいます。 イエス様は、むちで打たれたとき、どんなことを考えられたでしょうか。イエス様が十字架につけられたときに発せられたことばを思い出してみましょう。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ 23:34)。 イエス様は十字架の上でのみ、そのように言われたのではないはずです。気絶するほどの苦痛を与えるむちで打たれるたびに「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたことでしょう。
イエス様に対する世の嘲り 次にイエス様が受けられたのは、侮辱と嘲りでした。 「それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた」(マタ 27:27~28)。 むちで打たれ、血まみれになったイエス様は、総督官邸に連れて行かれました。兵士たちがイエス様の周りに集まり、服を脱がせ、緋色のマントを着せました。服を脱がせることは、一切の過去からの断絶を意味します。社会的地位や経済力などが、完全に剥奪された瞬間です。緋色のマントは、王の威厳を象徴するものでしたが、兵士たちは「おまえがユダヤ人の王様か」とからかう意味で着せたのです。「おまえは、もはや何者でもない。おまえは今、惨めな罪人として死ぬのだ」と言っているのです。 さらにイエス様に対する嘲りが続きます。 「それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、『ユダヤ人の王様、万歳』と言って、からかった」(マタ 27:29)。 兵士たちは宝石のついた王冠の代わりに、茨で編んだ冠をイエス様の頭に置き、右手に葦の棒を持たせて嘲りました。王は、特権と栄光の象徴として冠をかぶり、笏を手にしますが、イエス様の頭に置かれた茨の冠は痛みと苦しみと嘲りの象徴であり、イエス様の右手に持たされた葦の棒もイエスを嘲るためのものでした。 彼らはそのようにイエス様を苦しめながら、ひざまずいて「ユダヤ人の王様、万歳」と言いました。これが、世の罪を負われた神の子羊イエス・キリストに対するローマの兵士たちの態度でした。しかし、それは今日の私たちの姿でもあります。神様を信じる代わりに、お金や権力、快楽、成功に拠り頼んでいる人々がイエス様に対して示す態度です。 「またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した」(マタ 27:30~31)。 このようにして、イエス様に対する嘲りの儀式がすべて終わりました。
悔しさは神様に訴えましょう イエス様は、ローマの兵士たちに苦しめられ、あざけられながらも、何も言わず、抵抗もされませんでした。ペテロの手紙のことばが思い出されます。 「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(Ⅰペテ 2:22~24)。 イエス様は、ののしられても、ののしり返さず、怒ることもありませんでした。イエス様はご自分を苦しめる人々を憎まれませんでした。イエス様の関心は、義をもってさばかれる方にありました。イエス様は、どんなときも神様のもとに行かれました。汚名を着せられた時、迫害された時、常にすべての問題をもって神様の御前に出られたのです。「父よ!」と叫び、義をもってさばかれる方にすべてを委ねられたのです。 「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです」(Ⅰペテ 2:20)。 罪なく苦難を受けるとき、そのようにした人を恨まず、汚名を着せられても仕返しすることを考えず、いつも神様のことだけを考えるなら、神様に喜ばれるというのです。 私たちは、そのために召されました。私たちが善を行っても善の実を結ぶことができず、犠牲を払っても犠牲の実を結ぶことができない理由は何でしょうか。それは、報われることを願っているからです。私たちは、報いを受けるために召されたのではありません。苦しめられ、汚名を着せられ、打ちたたかれ、ののしられるとき、ただされるがままでいるのです。神の子羊のように犠牲になり、神様の御前に訴える人が、クリスチャンです。これが、この世の英雄や聖人とは違うキリストの姿なのです。 イエス様が受けられた苦難の意味 この問題に関してイザヤも語っています。 「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと」(イザ 53:2~4)。 ここに現れたキリストの姿は、クリスチャンと教会のあるべき姿です。しかし、最近の教会は歪んできています。この世の価値観と同様に、人数が多く、世の権力や地位のある人がたくさん集まっていれば、良い教会だと考えます。教会の霊性や人々の人格はどうであるか、キリストに似ていくような牧会がされているかどうかは、それほど重要視されていません。しかし、イザヤが告げたキリストの姿が見られる教会であるか、そのような牧会者であるかということこそ、最優先すべき問題なのです。 では、イエス様が受けられた苦難と嘲りには、どのような意味があるのでしょうか。 「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」(イザ 53:5)。 これが、イエス様が打ちたたかれ、ののしられたことの意味です。イエス様は私たちの咎のために砕かれ、私たちの平安のために懲らしめられ、私たちの癒やしのために打たれたのです。これが十字架です。 「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(Ⅰペテ 2:24)。 ここに癒やしがあります。イエス様の打ち傷によって、私たちの病が癒やされ、心の傷が癒やされ、私たちの人生が回復するのです。これが、ののしられ、むち打たれたイエス・キリストの力です。イエス様は言い訳を言ったり、復讐したり、悪い感情を抱いたりせず、だれにも理解されないまま静かに苦しみを受けられたのです。
神様から受ける報い 反対に、私たちはこの世で報いを受けようとがんばります。職場での葛藤は、自分によくしてくれないと考えるために生じます。「どうして給料がこの程度なのだ。なぜ私の地位はこのままなのか。私がこの会社のために何年も苦労してきたのに、どうしてそれに報いてくれないのか」と考えるのです。また、夫は妻に、妻は夫に対して、自分の苦労に報いてくれないと不満を抱きます。そのように、人生のほとんどの時間、不満を抱いて過ごしています。そこに幸せがありますか。そこに答えがありますか。どんなに報いてもらっても、私たちは決して満足できません。私たちが神様の御前に出て、打ち砕かれたイエス・キリストに出会うまで、私たちは決して真の報いを受けることはできないのです。 ですから、報われることをあきらめてください。人からの報いをあきらめてください。悔しい出来事を忘れなければなりません。イエス様のように、神様にその問題を持って行きましょう。そして、泣きたければ神様の御前で声を出して泣きましょう。 「どうか喜ばせてください。私たちが苦しめられた日々とわざわいにあった年月に応じて」(詩 90:15)。 神様の御前に出て祈りましょう。そうすれば、私たちも生き、私たちを悔しい目にあわせた人も祝福されるでしょう。私たちが生き、私たちの家族が生き、私たちの社会と国が生きるでしょう。
祈り 父なる神様。イエス様はこの世でののしられ、打たれ、苦しめられたにもかかわらず、すべての問題を神様に委ねられました。主よ、仕返しをしようとする思い、報われたいという思いを私たちから取り去ってください。人前で行う義、人に見せるための信仰の行いをしないように助けてください。神様から慰めを受け、神様の御前に喜ばれる存在となれますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
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