リュ・ウンリョル ワシントン中央長老教会 主任牧師、ゴードン・コンウェル神学校 客員教授
「信じる者だけが従うことができ、従う者だけが信じることができる」
実践する人生 「狂った人の運転する車が無実な通行人に突進するのを見たら、クリスチャンとして私は、ただそのむごい災難を見て、負傷者の手当てをし、死者たちを葬ることだけで終わってはならない。その運転手の手から無理やりにでもハンドルを奪わなければならない」 信仰と実践という主題について悩んでいた青年時代、私の心を熱くしたボンヘッファーの一言です。 アメリカで教授として尊敬され、平安に生きる人生を捨て、ヒトラーの統治下で苦しんでいる祖国に戻った後、39歳という若さで絞首刑により世を去ったボンヘッファー。彼の名は長い間、主に従う信者がどのように生きるべきかを提示する一つの道しるべとなってきました。 ディートリヒ・ボンヘッファーは、1906年2月4日、ドイツで生まれました。1923年にテュービンゲン大学に入学し、1927年に21歳で神学博士学位を取得しました。ユニオン神学校で研究活動をするために、ニューヨークに渡りましたが、祖国が危機に瀕すると帰国しました。1932年ベルリン大学で教え始めましたが、反ナチ的な講義のために、1935年に教授の資格をはく奪されました。その後、フィンケンヴァルデで神学生を対象に山上の説教を教え、その内容が1937年に本として発刊されました。 『キリストに従う』は、イエスを信じて受けた救いの恵みを強調していますが、主に従う者が払うべき犠牲が失われた今日のキリスト教会の教えを「安っぽい恵み」と叱咤することから始まっています。「安っぽい恵みは、我々にとって許すべからざる宿敵である。我々は今日、高価な恵みをめぐって戦っている。安っぽい恵みとは、見切り品としての恵みのことであり、投げ売りされた赦し、慰め、聖礼典のことである」 ボンヘッファーの時代も今日も、教会と信徒の最大の敵は、救いの恵みを軽く考えすぎる傾向です。救いは神の全的な恵みであり、信仰を神の国に行くチケット程度に考えてはなりません。私たちの救いのために、神の御子がどんな犠牲を払ったのか考えるたびに、恵みという栄光あることばの重さを新たに感じることができます。 「安っぽい恵みは、悔い改めのない赦しの宣教であり、教会戒規のない洗礼であり、罪の告白のない聖餐であり、個人的なざんげのない謝罪である。安っぽい恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、人となられたイエス・キリスト不在の恵みである」 イエスに従うとき、信者が受ける苦難は選択ではなく必須です。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタ16:24)というのは、ご自分に従う人にイエスが直接語られたみことばです。イエスに適当に従っているときは十字架を避けますが、本当にイエスに出会ったならば、十字架のために人生をささげます。神の御子が十字架で血を流して注がれた恵みの重みを悟るからです。 すべてをささげる弟子 ボンヘッファーは、「信じる者だけが従うことができ、従う者だけが信じることができる。この二つの命題は真理である」と信仰と従順の関係を整理しています。また、恵みについてこう語っています。「高価な恵みは畑に隠された宝であって、そのためには人間は出かけて行って自分の持ち物を全部喜んで売り払うのである。高価な恵みはイエス・キリストの招きであって、それを聞いた時弟子たちは網を捨てて従ったのである」 本物の信徒の始まりは、イエスに従うために代価を払うことです。その人は、イエスのためにすべてをささげて生きるのです。全世界のすべてを所有したとしても得ることのできない天のいのちを得たからです。 ボンヘッファーは、キリストに従いなさいという聖書の教えの前に正直であり、ご自分のいのちを与えて彼を救われた神の御前に自分のいのちをささげる生き方によってその教えを証明しました。死が近づいた監獄の中でも、多くの個人的苦痛と不安を超えて、イエス・キリストから与えられた天の平安を味わいながら淡々と人生を終えた彼を見ていると、同じ主を信じ、クリスチャンとして恥ずかしさを感じます。 1945年4月9日、フロッセンビュルク強制収容所で処刑される前、ボンヘッファーはイギリス人の収監者ペイン・ベストと最後のあいさつを交わしました。「これが最後ですね。しかし、私にとってこれは人生の始まりです」 独房から連れ出されたボンヘッファーは、ひざまずいて祈った後、勇敢に絞首台の階段を上りました。「キリストに従う」という本のタイトルを、彼の人生そのもので証明したのです。
ディートリヒ・ボンヘッファーの『キリストに従う』は、弟子の人生とはどういうものであるかを教え、高価な恵みによって救われた者として自分のすべてをささげて行動する信仰を強調しています。
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