信仰生活の指針となる書 「キリスト教古典」と言えば、まず思い浮かぶのば、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』です。ジョン・ウェスレーは、この書を「クリスチャンの人生を最も完璧に要約した書である」と称賛し、霊性の巨匠トマス・マートンは、「自分の人生を変えた最初の灯火である」と告白しました。ディートリヒ・ボンヘッファーは、死を前にした監獄の中で、この書とともに最後の時を過ごしました。 『キリストにならいて』は、1379年、ドイツのデュッセルドルフに近いケンペンで生まれ、カトリック司祭として修道院で生涯を過ごしたトマス・ア・ケンピスが、1420年前後に執筆したものです。それから700年以上の歳月が流れましたが、今でもこの書が愛され続けている理由は、根本的な人間の問題に対する天の知恵を教えてくれるからです。 全四巻からなるこの書の中で、著者は「キリストならどうされるだろうか」という質問をさまざまな人生に適用し、まるで主が説明してくださっているかのように鮮明に描いています。第一巻は霊的生活に役立つ勧め、第二巻は内的生活に役立つ勧め、第三巻は主が与える内的な慰め、第四巻は聖餐の驚くべき奥義と祝福をテーマとして構成されています。各巻には簡潔で深い霊性の響きがあり、主を愛するすべてのクリスチャンがイエス・キリストのご性質と教えを学ぶことができます。 著者が伝える言葉は、信仰の本質的な教えと信仰生活の具体的な姿を同時に示してくれます。特に主の御前でのクリスチャンの人生をありのまま投射してくれているので、一つ一つの文章を軽く読み飛ばすことができず、自らを深く省察させます。「自分について本当に知っている人は謙遜なので、ほかの人からの称賛に喜びを見いだそうとしない」 満足を知らず、ほかの人から認められようとする欲求に飢え渇いている現代人の人生に本当に必要なものは何かを著者は語っています。カルヴァンは神の御前に自分を見いだすことが真の謙遜だと言いました。神の御前で生きる人だけが受ける確かな自由と喜びがあるのです。 そして著者は、世に両足をつけて立っていても、世に属していない天の御国の民として、私たちがどのような姿勢で生きるべきかを詳しく提示しています。「神への愛にあふれる者が、真に偉大である。自分をへりくだらせ、世の名誉を欲しない者が真に偉大である。キリストを得るために現世のすべてをちりあくたと考える者が、真に知恵深い。また、自分の考えを捨てて神の御心を行う者が、最も博識である」
キリストにならう人生 著者は、イエスに従うと言いながら、この世で平安を味わうことを祝福であると考える時代に警告します。「キリストの一生が十字架であり、殉教であったのに、あなたはなぜ平安と快楽だけを追求するのか。より高い霊的人生に到達するほど、さらに重い十字架が見つかる。クリスチャンにとって十字架は、選択ではなく、人生そのものである」 著者の簡潔な祈りは、多くの信仰者の足を止めます。「主を私に与えてください。私はそれで十分です。主が私から離れていかれるなら、どんな慰めも無意味です。私は、主がいなくては存在することができず、主が私のところに来てくださらないなら、生きていけません」 イエス・キリストが人生のすべてとなった人は、世が消えても天に向かってほほ笑むことができるという教えは、時を超えた真理です。 キリストにならう人生! 主に出会った20代初めに切実にささげた祈りです。いつだったか、その意味がどういうことかを悟ってからは、その祈りを心からささげられなくなりました。私がイエスのように生きることに耐えられない罪人であることを知ったからです。「キリストにならいて」ということばは、格好いいスローガンやロマンチックな情熱ではありません。罪に満ちた自分を拒み、神の聖なるご性質が自分のすべてを貫くとき、はじめて味わうことができる天の恵みです。どんなに罪の重荷に押さえつけられても、キリストにならおうとする聖なる情熱は、決して放棄できません。そこに人間の存在の真の意味があり、人生の至高な感激があるからです。 一年を始めるにあたり、静かに主を黙想し、一歩一歩イエスの足跡に従うなら、キリストの姿が人生のあちこちに奥ゆかしい香りとして現れるでしょう。忙しく駆け回っても浅はかでしかなく、多くのことをしても主との親密な交わりが失われている今日、イエスに似ていく人生にこそ、人生の意味と幸せがあるということを、改めて悟ることができるでしょう。
キリストに従うクリスチャンにとって、 クリスチャンにとって十字架は、 選択ではなく、人生そのものです。
中世の修道士トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』は、信仰の精髄とクリスチャンの正しい人生の態度について適確に著した、代表的なキリスト教古典です。
|