日本CGNTVの番組より
皆さんは、宣教師と聞いて何を思い浮かべますか。きょうは、宣教師の方々をお招きし、宣教師がたどった道、伝える真理、生みだされるいのちについて分かち合っていただきたいと思います。お集まりいただいたのは、高橋めぐみ宣教師(アンテオケ宣教会所属。2000~17年インドネシアで宣教)、小長光舞子宣教師(日本オープンバイブル教団所属。2006年~18年タイで宣教)、安川圭吾宣教師(アンテオケ宣教会所属。タンザニアでダルエスサラーム・インド人教会を牧会中)、佐藤一彦宣教師(日本バプテスト・バイブル・フェローシップ所属。1998年~2016年ウガンダで宣教)です。(以下、宣教師は省かせていただきます。)
たどった道(宣教師になったきっかけ) 高橋 私は、母教会の牧師が宣教に行くとき、教育宣教師として初めてインドネシアに同行しました。その後、団体の宣教集会で、インドネシアのある先生が「宣教師とは竹のパイプのようなものだ。中をくりぬかれる思いをして謙遜になったとき、一つの山から次の山へと祝福を流すことができる」と話されたのを聞き、そのような宣教師になりたいと思い、招きに応じて前に出ました。その後、5年ほど躊躇していましたが、教会の牧師夫人がガンで亡くなったとき、私は神様からの召しに従っているかということを探られて、2000年にインドネシアに行きました。 小長光 私は、ミクロネシア連邦のポンペイ島で救われましたが、その地でお世話してくださった方がアメリカ人の宣教師ご夫妻でした。私は、帰国する時にうっすらと「こんな宣教師になりたい」とい思いました。帰国して3年後に神様からの御言葉を伴った召しが与えられました。その後、7年間は道が閉ざされ、まず教会で奉仕をし、神学校に行きました。さらに3年間、道が閉ざされ、あきらめかけていた頃、聖会で「信仰を持って一歩を踏み出しなさい」と語られ、近くの宣教師の所に英語を学びに行くことにしました。すると、その宣教師を通して、タイへの宣教の道が開かれました。 安川 もともと私には教会を開拓したいという願いがあり、教会で伝道師として仕えていました。家内が独身の時、タンザニアから一時帰国して、教会に宣教報告に来ていました。その時、家内に見初められて「私との結婚のために祈ってもらえますか。タンザニアに宣教に行くことも合わせて祈り、それを1ヶ月以内に決めてもらえますか」と言われました。そして彼女が「タンザニアには、まだ福音の伝わっていないインド系のタンザニア人がいて、彼らに福音を届ける必要がある」という話を聞くうちに心が燃やされ、3週間後、プロポーズをしてタンザニアに行くことになりました。 佐藤 私はウガンダで17年間、宣教師をしました。小さい頃からアフリカが大好きで、テレビで動物の番組をよく見ていました。そして、アフリカの動物を助けたいと思い、獣医になりたいと思っていました。中学3年生の時、友だちに誘われて教会に行くようになり、イエス様を信じて考え方や人生観が変わりました。そして、動物を助けるよりも人の心を直す宣教師になりなさいと神様に語られ、日本人として第一号のウガンダの宣教師になりました。
どのように真理を伝えたか 小長光 最初はアメリカ人宣教師によるNPO団体に加わり、その団体が風俗で働く女性やストリートチルドレンを助ける働きをしていました。女性2人以上でバーに行って話をし、イベントやプログラムに誘うという形でした。最初に救われたのはミャンマーから来た女性でした。彼女は4年目に教会に加えられ、人生が新しくなったのを見て感慨深かったです。 佐藤 ウガンダはキリスト教国です。ですから教会に行く習慣があります。でも、イエスを知っているのと信じているというのは違います。本当の信仰に導くには知恵が必要で難しく、軌道に乗るまでは手探りでした。 安川 ヒンズー教徒は、「偶像の神+イエス様」なんです。ただ、洗礼を受けるとなると、共同体から追い出され、子どもたちも結婚できなくなるので、イエス様を信じて洗礼を受けるところに至るまでには数年かかります。しかし、信じた人は主だけに仕え、また福音を伝えていきたいという大きな情熱を持ちます。 高橋 私は6代目の宣教師です。西カリマンタンのダヤク族の中でリバイバルが起こり、神学校が建てられ、その神学校に宣教師として行きました。現地には寮に入らなければ学校に行けない子どもたちが大勢います。寮で聖書を教え、信仰と実際的訓練をして村に帰すという働きでした。彼らは、寮でイエス様の話を聞き、悔い改めに至り、信仰を持つようになりました。奥地の村に戻った子どもたちは、教会に教職者がいないので、礼拝の司会をしたり、メッセージをしたりします。牧師ではないけれども、故郷の村で本当のイエスを伝えていくという働きをしています。
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