|
聞いたなら悟って行いなさい [ マタイの福音書16章5~12節 ]
|
マタイの福音書の恵み 95 |
|
オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
弟子たちは向こう岸に行ったが、 パンを持って来るのを忘れた。イエスは彼らに言われた。 「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」(マタ 16:5~6)。
前回は、霊的に無知だったパリサイ人やサドカイ人について考えてみましたが、きょうは、霊的な無知の別のタイプ、イエス様のそばにいた弟子たちの姿から学んでみたいと思います。 「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。イエスは彼らに言われた。『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。』すると、彼らは、『これは私たちがパンを持って来なかったからだ』と言って、議論を始めた」(マタ 16:5~7)。 イエスの弟子たちの姿から、霊的な無知がどのように生じるのか考えてみましょう。
パンのことだけを考えているから 第一に、霊的な無知はパンのことを深く考えるところから生じます。「パン」とは「お金」とも考えられます。お金は重要ですが、ただお金のためだけに生きると、霊的な闇に陥ります。 「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた」とあります。食事ができないということです。実際、食事ができないということは、深刻な問題です。パンだけでなく、お金がなくても、目の前が真っ暗になります。すべての時代において、お金に関わる問題は、いつも人間に絶大な悩みを抱かせました。人は、衣食住に問題が起こると、不安に襲われます。これがまさに、弟子たちがパンを持って来るのを忘れたという単純な事実から教えられる人間の弱さです。 弟子たちはとっさにパンのことを考えましたが、イエス様の関心事はパンではありませんでした。もっと深いこと、すなわち、誤った真理と教えを持った人々の危険性に関することにありました。ですからイエス様は、パリサイ人とサドカイ人たちのパン種に注意するようにと言われたのです。 では、ここで「パン種」とは、何を意味するのでしょうか。それは、彼らの腐敗した信仰と行為を意味します。現世の栄華や富を追い求める姿、現実に妥協した合理主義の信仰と世俗主義的な信仰です。 パン種が小麦粉の中に入ると、その全体をふくらませるように、悪しき影響力が人々の中に入ると、その時代全体を悪しきものに変えてしまいます。特にイエス様は「気をつけなさい」と言われる前に、「注意して」ということばをつけ加えて強調し、いつも気をつけるようにと言われました。 「すると、彼らは、『これは私たちがパンを持って来なかったからだ』と言って、議論を始めた」(マタ 16:7)。 このみことばから、弟子たちがどれほど霊的に無知だったかがわかります。イエス様は、永遠の霊的真理について考えておられ、弟子たちは人間的なこと、世俗的なこと、パンの問題についてのみ考えていました。霊的な闇は、パンのような現実問題だけに執着することから始まるのです。
信仰が弱いから 第二に、私たちが霊的な闇と無知の中でさまよう理由は、信仰が弱いからです。イエス様は弟子たちの考えをご存じで「信仰の薄い人たち」(8節)と言われました。信仰が薄いと、神様のことを考えません。頼れる人のことを思い、お金のことを考えます。信仰がないとき、人間はお金に戻るようになっているのです。 マタイの福音書13章58節には、イエス様が故郷で多くの奇蹟をなさらなかった理由が、彼らの不信仰のためだったとあります。また、マタイの福音書8章23節以下で、弟子たちが湖で暴風に襲われたとき、恐れ惑ったのも、彼らの信仰が薄かったからです。 信仰が弱ければ、霊的な世界を感じることができず、見ることもできません。信仰が弱い理由は、疑いに支配されているからです。疑いはサタンから来ます。神様を拒むことから生じます。信仰の目で見るとき、神様が見えます。神様がおられないのではなく、信仰の目を閉ざしているから、神様が見えないのです。
忘れたから 私たちが霊的な無知に陥る第三の理由は、次のみことばから見いだすことができます。 「まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか」(マタ 16:9~10)。 私たちはこのみことばから、霊的な無知と闇は、イエス様がなされたみわざを忘れることによって生じるということがわかります。 旧約のイスラエルの民を見てください。彼らは、いつも葦の海や幕屋の出来事を回想することによって信仰を保ちました。彼らは、仮庵の祭りを守り、幕屋でささげ物をし、そのたびに、神様の恵みの奇蹟を思い起こしたのです。 信仰とは何でしょうか。神様がなされたみわざに思いを巡らすことです。かつて自分のためになしてくださったみわざを、特に、イエス・キリストがなされたみわざを、聖霊を通して現在のこととしてとらえるのです。信仰が弱いとき、人は聖書の出来事を忘れてしまいます。信仰とは何でしょうか。借りを返す気持ちで生きることです。「神様が私に与えてくださったすべての恵みに、どのようにお返しをすることができるだろうか」と考えながら生きることです。
悟ることができないから 第四の理由は、イエス様のみことばを正しく理解できなかったからです。 「わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです」(マタ 16:11)。 弟子たちは、信仰がなく、イエス様がなされたみわざを忘れたので、イエス様がパン種の話をされたとき、パンのことを言っておられるのだと勘違いしました。イエス様が意図されたのは、誤った信仰へと導き、悪い影響を与えるパリサイ人とサドカイ人たちの教えに警戒するようにということでした。 「彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った」(マタ 16:12)。 このみことばは、パリサイ人とサドカイ人と弟子たちの違いを見せてくれます。弟子たちも初めは霊的な無知の中にいましたが、イエス様が再び教えてくださったとき、心を開いて受け入れ、真理を悟りました。 信仰は、みことばを正しく悟るところから始まります。最も大きな過ちは、過ちを認めない態度にあります。だれもが罪を犯しますが、その罪を悟れば、恵みになります。罪があるところに恵みが増し加わります。最後まで罪に執着すれば、望みはありません。私たちは、教会に来る動機と目的を新たにしなければなりません。私たちの関心がパンではなく、永遠の真理に向けられなければならないということを、新たに悟らなければなりません。 私たちは食べてこそ生きることができますが、パンの奴隷になってはいけません。お金がなければ生きられませんが、お金が私たちの目的ではありません。心の目を大きく開かなければなりません。信仰が弱ければ神様が見えず、霊的な出来事を解釈することができません。信仰の目を大きく開き、信仰によって歩めば、天の働きが見え、真理が見えてきます。 イエス様がなされたこと、神様が私たちに施された恵みと祝福を過去のものとせず、もう一度思い巡らしてください。そうすれば、神様がさらなる恵みを施してくださいます。神様が奇蹟を起こすことができないから、起こらないのではありません。神様がもったいぶって病をいやされないのでもありません。新たな奇蹟を味わってください。神様は、過去も現在も同じ方です。みことばの真理を正しく悟り、変えられましょう。そうすれば、私たちは霊的な無知と闇から抜け出すことができるのです。
|
|
|
|
|