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しるしを求める信仰を避けなさい [ マタイの福音書16章1~4節 ]
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マタイの福音書の恵み 94 |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。 しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」 そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた(マタ 16:4)。
世の中で最も悲劇的な人は、目が開いていても見ることができない人でしょう。だれに限らず、闇に閉じ込められているということは大きな悲劇です。真理を正しく見られず、光の世界に至ることができないからです。 マタイの福音書16章1~12節を見ると、霊的な闇に閉じ込められて生きている人に、2タイプの人がいることがわかります。一つのタイプは、パリサイ人や律法学者のように天からのしるしを求める人々で、もう一つは、イエス様の弟子のように、最初は霊的な闇にいて、後に恵みによって目ざめる人です。きょうは、一つ目のタイプの人々について見ることにしましょう。
最後のチャンスを拒んだ人々 「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ」(マタ 16:1)。 パリサイ人やサドカイ人たちは、当時のユダヤ教の指導者たちで、だれよりも先にイエス様を歓迎し、喜ぶべきでしたが、実際はイエス様を拒みました。彼らは、どんな人たちだったのでしょうか。 彼らはイエス様に敵対するためにやって来ました。それまでも、彼らはイエス様のもとに何度もやって来ました。イエス様を歓迎し、みことばに聞き従うためではなく、イエス様を攻撃するためです。彼らは、安息日の問題や(マタ 12:2)、悪霊を追い出す権威やきよめに関することなど、いろいろな問題を提起して抗議しました(マタ 12:24, 38;15:1)。きょうの箇所を見ても、パリサイ人やサドカイ人たちが、イエス様の神性を否定するためにやって来たことがわかります。ところで、聖書を見ると、それ以降、イエス様は彼らと論争されず、十字架につけられて死なれる時まで弟子たちに集中する姿が見られます。 パリサイ人とサドカイ人たちは、尊敬されていましたが、実際は最もかわいそうな人たちです。パリサイ人とサドカイ人たちは、最後までイエス・キリストを排斥し、否定しました。彼らは、だれよりもイエス様と近いところにいて、主のみことばを直接聞き、奇蹟を目撃し、救われる機会が実にたくさんありました。しかし、高慢とプライドのために、結局、救いを逃してしまいました。
神様に対する深い黙想 ここでもう一つ、私たちが覚えて聞くべきみことばがあります。それは、「時のしるし」ということばです。 「朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか」(マタ 16:3)。 「時のしるし」とは、神の国、救いの時が臨んだことを表すしるしのことです。旧約聖書では、「メシヤが来るときは、このようなことがある。足のなえた者が立ち上がり、目の見えない者の目が開き、さまざまな奇蹟や異変が起こる」など、時のしるしを預言しています。イエスは、約束された救いが、まさに今、来ていると言われたのです。しかし、パリサイ人や律法学者たちは、神様が示された預言に対して目が雲っていました。彼らは聞くには聞きましたが、悟ることができなかったのです。 私たちの社会、そして自分自身を振り返ってみてください。経済や社会、政治権力、教育問題に対して、みなが専門家気取りになって語ります。しかし、神様に対する考えや知識を論ずる人は、ほとんどいません。教会にさえ神様に対する深い黙想も霊的な洞察力もありません。だから教会の声が世に響かないのです。私たちは、神様をさらに深く黙想しなければなりません。神様の御心のために悩み、身もだえしなければなりません。 イエス様は、当時の宗教指導者たちを指して、次のように表現されました。 「『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた」(マタ 16:4)。 パリサイ人とサドカイ人たちのことを、「悪い、姦淫の人たち」と言われました。そして、彼らが影響を及ぼしている社会を「悪い、姦淫の時代」と言われました。「悪い」とは、道徳的、質的に悪いという意味で、「姦淫」とは、霊的な姦淫を意味します。悪い人は、悪い影響を与え、良い人は良い影響を与えます。教会に信仰の人、御霊の人、神の人がひとりいれば、その人はすべての信徒に衝撃を与えるでしょう。 パリサイ人とサドカイ人たちが人々のたましいや倫理面に悪影響を与えた結果、その時代の人々は、神様に対して姦淫の罪を犯すようになりました。彼らの霊的な闇は、罪の深さと関連していました。彼らの罪は、どれほど深いのかもわからないほど深くなっていました。
十字架のしるしと力 しるしを求める宗教指導者たちに対し、イエス様は、一つのしるししか与えられないと言われました。それは「ヨナのしるし」です。「ヨナのしるし」とは、旧約聖書から来るしるし、すなわち、旧約時代に与えられた預言を意味します。私たちは、大変なことが起こったとき、聖書に戻らなければなりません。イエス様も、三度の試みにあわれたとき、聖書のことばを引用されました。イエス様は多くの奇蹟を起こされましたが、決定的な時にはみことばに戻られました。 では、ヨナのしるしとは、具体的に何でしょうか。それは十字架のしるしです。奇蹟の中の奇蹟は、十字架なのです。十字架の奇蹟はたましいを救います。 「しかし、イエスは答えて言われた。『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです』」(マタ 12:39~40)。 ヨナの出来事には多くの意味がありますが、イエス様はここで一つだけ選んで私たちに説明してくださいました。すなわち、ヨナが3日3晩魚の腹の中にいたように、イエス様も父なる神の御心を成し遂げるために十字架にかかって死なれ、3日間地に埋められるというのです。十字架の死、これこそがしるしです。 十字架は、救いです。十字架は、悔い改めです。十字架は、いやしです。イエス様がいばらの冠をかぶり、手と足にくぎを打たれ、やりで刺されて「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタ 27:46)と叫んで死なれること、それがしるしです。「わたしがあなたがたに見せるのは、世的な勝利の凱旋歌ではなく、死である」と言われたのです。イエス様の死は私たちの生を意味し、罪が赦され、神の子どもとなる権威が与えられることを意味します。 彼らは、そのことを理解できませんでした。しかし、私たちは理解しなければなりません。イエス・キリストの十字架を信じなければなりません。復活されたイエス様を信じなければなりません。神の子どもとなった権威を信じなければなりません。私たちの信仰がまさにここにあります。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力だとパウロは言いました(Ⅰコリ 1:18)。十字架の力、十字架のしるしを、ヨナのしるしを通して私たちに見せてくださったのです。 4節の終わりの部分を見ると、「彼らを残して去って行かれた」とあります。パリサイ人やサドカイ人、律法学者たちを残してイエス様は去っていかれました。切実な心情で何度も真理を教えたにもかかわらず、彼らは高慢だったので、悟ることができませんでした。 今日の私たちは祝福された者たちです。ただ教会にやって来て、献金をささげて帰るだけなら、何の意味があるでしょうか。心も来なければなりません。神様に会わなければなりません。十字架の力が、私たちのたましいの中で生きて働かなければならないのです。
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