ともに歩み、助けてくださる聖霊 ユ・スンウォン デトロイト韓国人連合長老教会 主任牧師
聖霊は聖書の中に何度も出てきますが、父なる神と子なるキリストだけが強調され、聖霊は後ろに隠れているかのように思えることがあります。そのためか、F. D. ブルーナーは、聖霊論の著書のタイトルを『The Holy Spirit, Shy Member of the Trinity(聖霊、三位一体の中で恥ずかしがりの方)』としました。聖霊がどんな方であるのか、一緒に見てみましょう。
聖霊、三位一体の第三位格の神 聖霊は三位一体の第三位格の神です。聖霊を強さ(force)や力(power)程度に限定するのは、神学的な誤りです。そのアイデンティティは、三位一体の奥義の中に見いだすことができます。「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ロマ 8:9)。聖霊は、父なる神について私たちに教えてくれます。ですから、神の霊です。また、聖霊は子なるイエス・キリストについて私たちに教えてくれます。ですから、キリストの霊です。つまり、聖霊は神の霊であり、キリストの霊なのです。
聖霊、ともに歩まれる助け主 イエスは聖霊を「助け主」と呼ばれました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハ 14:16)。「助け主」は、聖霊の働きを知らせるためにつけられた別名で、ギリシャ語では“パラクレートス”(para,klhtoj)といいます。接頭語“パラ”(para,)は、「前」(beside, by)、または「近く」(near)という意味の前置詞で、“クレートス”(klhto,j)は「召された者」という意味です。つまりこの合成語は、「ともに(そばに)いるために召された者」という意味で、法廷で「弁護人」の役割をする人(advocate)を指すことばでした。しかし、ヨハネの福音書14~17章に出てくるイエスの告別説教を見ると、パラクレートスが持つ「弁護人」(advocate-NIV, NRSV)という意味がおもな概念ではないようです。パラクレートスは、おもに教えと啓示と解釈などをその役割と考え、助け主、helper(NASB, NKJV, ブルトマン), counselor(RSV), comforter(KJV)など、さまざまな用語が使われました。しかし、これらの単語のどれか一つだけでは、イエスの意図をすべて言い表すことはできません。 私は個人的にパラクレートスの字義的意味を最大限に生かして、「同行」「同伴者」が最も良い翻訳ではないかと思います。私たちのうちにおられ、いつもともに歩み、教え、弁護し、助け、助言し、励まし、慰める方が、このパラクレートスとしての聖霊です。このパラクレートスの意味を、あるスモールグループで分かち合うと、ある聖徒が三位一体の神をこのように整理してくれました。「父なる神は全宇宙的な神です。子なる神は全人類のために来られました。聖霊なる神はひとりひとりの個人に働かれる神です」 全宇宙の神が私のうちにおられます。全人類の救い主であるキリストが、私の中におられます。私とともに歩み、私が寂しくないようにし、私を進むべき道へと導き、聖い生活をしながら主の働きをさせてくださるパラクレートスなる聖霊が、私のうちにおられます。
聖霊のイメージ、風と火と生ける水 子なるイエスは、神として100パーセント人間になられ、パレスチナという空間と1世紀初めという時間の中で生きられたため、人々が直接見、触れ、声を聞くことができました。もしその時、今のようにスマートフォンがあったなら、イエスの歩みが動画や音声で保存され、今日の私たちが間接的にでも見聞きすることができたでしょう。しかし、聖霊は物体性がなく、時間と空間に縛られないため、人が見たり、聞いたり、触れたりすることはできません。それで聖書は、私たちが聖霊を理解できるように、現象や事物のイメージを用いて描いているのです。
・ 風の聖霊:聖霊は、風のようです。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」というイエスの教えに疑問を抱いたニコデモに、イエスは「風(プニューマ)はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊(プニューマ)によって生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハ 3:8)と説明されました。聖霊を指すヘブル語“プニューマ”(pneu/ma)は、「風」または「息」という意味を持っています。ヘブル語“ルーアハ”(x:Wr)も同じです。イエスは理解しやすいように、一種の言葉遊びを用いられたのです。聖霊のみわざは、その単語の別の意味でもある「風」のようだというのです。信仰を呼び起こす聖霊のみわざは、風のようです。目に見えず、つかむこともできません。自分の意志のままに吹いて、影響を及ぼします。聖霊の風が吹くと、たましいが燃えます。「信じます」と信仰を告白する瞬間、神秘的な風が吹いて、そのたましいが聖霊に満たされるのです。 使徒パウロは、これを「深みにまで及ぶ霊」と説明します。「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです」(Ⅰコリ 2:10)。「深みに及ぶ」と訳された“エラウナオー”(evrauna,w)は、「調査する、検索する」(search)という意味です。聖霊は、すべての場所に行かれます。またたく間に、風のように吹いて探ります。コンピュータやスマートフォンに検索語を入力すると、一瞬で全世界のすべてのサイトを検索して該当事項を教えてくれるように、風のように動かれる聖霊は、すべてのことの深みに及ばれます。天の風が神と私の間を行き来し、私のうちに信仰を起こします。新しくしてくださいます。聖霊は深みにまで及ばれる(検索し、伝達する)風です。 ・ 火の聖霊:聖霊は火のようです。五旬節に120人の弟子たちに聖霊が臨んだ時、風の音とともに炎の舌のようなものが、それぞれの上にとどまりました。バプテスマのヨハネは、イエスが聖霊と火でバプテスマを授けることを予告しました(マタ 3:11)。火の聖霊を受けた弟子たちは変わりました。小心者たちの胸が熱くなり、全イスラエルをひっくり返しました。火の聖霊は、内なる人を変える情熱です。 聖霊は火です。私のうちに神の御心を成就しようとする情熱を起こす火です。「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサ 5:19)。ここで使われた動詞“スベンニュミ”(sbe,nnumi)は、「火を消す」(extinguish)という意味です。聖霊は消してはならない火のようです。主は、なまぬるくなっていたラオデキヤの教会に「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙 3:20)と言われました。なまぬるくなって吐き出されるべきラオデキヤの教会が、心を開いてお迎えすべき方は、聖霊でした。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」(黙 3:22)。聖霊は燃える火のような情熱です。 ・ 生ける水の聖霊:聖霊はいのちに満たしを与えます。イエスの時代、仮庵の祭りの時期には、7日間、朝ごとに祭司がシロアムの池から水を汲み、金の器にいれて神殿の祭壇に運びます。7日目にはこれを7度繰り返し、渇いた地を雨で濡らしてくださることを求める“雨ごいの祈り”が続きます。 この「祭りの終わりの大いなる日」に、イエスが叫ばれました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(ヨハ 7:37~38)。人々の注意をひくに十分なほど目立った行為でした。その場にいただれもが、まるで心の中が見られているかのように、あるいは、わかってもらえたかのように、心に“ぐっと”きたことでしょう。人はみな心が渇いているからです。この世で何をしても心の奥底が満たされないという、むなしさがあります。快楽によっても、権力や富、学問、芸術などによっても満たされず、それらにしがみつけばしがみつくほど、かえって深くなるたましいの渇きがあります。仮庵の祭りでは、伝統的に伝道者の書を一緒に読みます。「空の空。すべては空」(伝 1:2;12:8)というくり返し部分で、この渇きを表現します。 渇いているからといって、それを解決するためにむやみにどこかへ行ってはなりません。振り回され、持っているものをすべて奪われるかもしれません。権力によっても滅びます。お金によって、名誉によって、快楽によって滅びるのです。生存のための切迫感と愛情不足によって心が渇ききっていたサマリヤの女は、夫が5人いて、6人目の男を見つけましたが、渇きはなくなりませんでした。生涯世の水を飲みつづけなければならなかった女に、イエスが語られました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハ 4:14)。 仮庵の祭りでイエスが語られた「生ける水の川」(ヨハ 7:38)とは、聖霊のことです。「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである」(ヨハ 7:39)。聖霊だけがたましいを満たすことができます。イエスを受け入れ、救いの確信をもって聖霊に満たされている人はみな、きのうと何も変わらない太陽や月、木、風などによっても喜びにあふれ、賛美します。その人の心の奥底に生ける水の聖霊があふれ出るからです。聖霊はたましいを満ち足らせます。
聖霊は信仰を与える風であり、 情熱を燃やす火であり、 たましいを満たす生ける水の川です。
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