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マタイの福音書の恵み 93
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パンくずほどの恵みでも② [ マタイの福音書15章21~28節 ] |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは よくないことです」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。 ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(マタ 15:26~27)。
女の驚くべき忍耐と信仰 イエス様に悪霊にとりつかれた娘をいやしてほしいと頼んで、拒絶されつづけたカナン人の女は、どんな反応を示したでしょうか。 「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください』と言った」(マタ 15:25)。 この反応から、この女には、イエス様の否定的な態度にも揺るがされないほどの、絶対的な忍耐と信仰があったことが感じ取れます。まるでイエス様と女の態度が入れ替わったかのような感じさえします。イエス様は沈黙して拒絶しつづけ、女はそのようなイエス様に対して積極的な信仰と忍耐をもってあわれみを求めているのです。 女はひれ伏しました。それは、すべてを手放したということであり、すべてをゆだねることであり、信頼することを意味します。そして、自分をあわれみ、助けてくださいと積極的に求めました。これだけのことをしたのですから、イエス様も答えてくださってもいいのではないでしょうか。しかし、イエス様はますます強く拒まれました。 「すると、イエスは答えて、『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです』と言われた」(マタ 15:26)。 理解できないみことばです。マルティン・ルターはこの箇所を、「イエス様のこのことばは、彼女の心を、そして信仰を粉々にした」と解釈しています。こんなことを言われたら、どれほどプライドが傷つくでしょうか。これは、「おまえは犬だ」と言っているのと同じです。そんなことばを聞いてもイエス様を信じるという人が、どれほどいるでしょうか。 ところが、イエス様のその意外なことばよりも、もっと驚くべきことは、女の反応です。 「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(マタ 15:27)。 これにはイエス様も驚かれました。別の言い方をすると、イエス様が負けたのです。イエス様が強い試みを続けても、女は腹を立てたり恨みごとを言ったりせず、「そのとおりです」と答えました。この女のことばに真の謙遜と信仰があります。彼女はイエス様に「主よ」と言いました。彼女は救いの外にいた異邦人です。神の民になる資格のない罪人でした。「もし主が、子どもたちに与えるべきパンを、食卓の下にいる小犬に与えることなどできないとおっしゃるのは、ごもっともです。しかし、私はパンくずでもいただきたいのです」というのが、この女の信仰です。 何という信仰でしょうか。偉大な信仰とは、どのようなものでしょうか。イエス様を長い間信じることでしょうか。「信じます」と言った人がいやされれば、信仰が偉大なのでしょうか。良い信仰があれば、火の中にも入りますか。良い信仰があれば、奇蹟が起こるのでしょうか。信仰に対するイエス様の解釈は、全く違っていました。この地上で最も完璧で尊い信仰は、ほかでもない、この女の信仰だと言われました。 「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った」(マタ 15:28)。 私は、この部分から、「あなたの信仰はりっぱです」と言われたイエス様の表情を想像してみました。イエス様はあまりにもうれしくて、興奮されたのではないでしょうか。「そうだ! 信仰とは、まさにそういうものなのだ!」と、満面の笑顔で女に答えられたように感じました。多くの人々が信仰に関して話しますが、イエス様を感動させることはありませんでした。イエス様の心にかなった信仰とは、まさにこの女の信仰だったのです。
ほめられた信仰 では、イエス様がりっぱだとほめられた信仰は、どんなものでしょうか。 第一に、「イエス・キリストにはおできになる」と信じることです。無条件に信じることでも、自分の考えや祈りを信じることでもありません。信仰とは、イエス・キリストを見上げることです。「イエス様の前に行けば、病をいやしていただける。イエス様の前に行けば、救われて、すべての問題が解決する。イエス様は神の御子であり、私の救い主だ」と信じることが信仰なのです。 この女は、イエス様が自分の問題を解決してくださると信じました。最近、クリスチャンであるにもかかわらず、多くの人がイエス様を捜し求めず、主のしもべ(牧師やほかの信仰者)のところに行きます。しかし、それは信仰ではありません。信仰とは、イエス様を捜し求めることです。イエス様を見上げ、信頼することです。 第二に、「主よ、私を助けてください」と言える素直さです。自分の無能さを認め、自分には助けが必要だと言うことができるのは、神への確かな信仰がある証拠なのです。ある人は、教会に通っていてもイエス様に拠り頼まず、自分の経済力や経験、知識などに頼ります。そのような人は信仰がないのです。信仰のある人は、「私には何もありません。神様の前で私に何ができるでしょうか。神様! 助けてください。私をあわれんでください」と告白します。 いつ信仰が生じるのか、わかりますか。非常事態に陥った時に生じるのです。腹が満たされ、着る服があり、生活する家があるときは、信仰は不安定です。お金や地位に頼り、人間関係で解決しようとして、神様に頼ろうとしないからです。それでは信仰は生じません。 第三に、最後まであきらめず、パンくずでももらおうとする態度です。イエス様が子どもたちのパンを取り上げて小犬にやるわけにはいかないと言われたとき、この女は腹を立てませんでした。最後まであきらめず、パンくずでもいただきたいという謙遜さと切実さがありました。これこそ真の信仰です。 このように見ると、この女に対するイエス様の冷酷な沈黙は、単なる拒絶ではなかったことがわかります。むしろ、この女に真の信仰を持たせるための刺激剤だったのです。 私たちの前には、多くの問題があります。深刻な状況や苦しみがあります。ある人は、そのような状況にぶつかると、神様に腹を立て、恨みごとを言います。神様は、私たちを苦しめるためにそうされるのではありません。神様が願われるのは、私たちがこの女のように、りっぱな信仰を持つことです。神様を恨んだり、あきらめたり、不平を言ったりせず、「主よ、パンでなくてもかまいません。パンくずでもいいのでお与えください」という謙遜な信仰を持たせるために、私たちに試練を与えられるのです。 このような試練や苦しみを経験して、私たちがイエス・キリストに信頼し、パンくずでもいただきたいという謙遜な信仰を持つと、どんなことが起こるのでしょうか。 「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った」(マタ 15:28)。 イエス・キリストに信頼する信仰を最後まで持ちつづけるとき、娘から悪霊が出ていきました。これが、信仰によって起こる奇蹟です。今日、私たちがこのような信仰を持っていれば、悪霊がすぐに出ていき、病がいやされるでしょう。神様は力がなくて問題を解決されないのではなく、私たちが信仰に立つのを待っておられるのです。イエス・キリストを見上げる信仰、イエス・キリストに助けを求めて頼る純粋な信仰、パンくずでもいただきたいという、プライドを捨てた信仰を持つとき、奇蹟が起こります。 この女は神様から大きな祝福を受けました。しかし、この祝福はこの女の出来事だけで終わってしまったわけではありません。すべての異邦の民が救われる秘訣を、この女が示してくれたのです。異邦の民は、どうしたら救われるでしょうか。信仰を持つことです。あきらめない信仰、謙遜な信仰、イエス・キリストを見上げる信仰、主に恵みと助けを求める子どものような信仰を持つとき、驚くべき奇蹟が起こるのです。
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