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パンくずほどの恵みでも① [ マタイの福音書15章21~28節 ]
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マタイの福音書の恵み 92 |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
「それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた」(マタ 15:21)。 この単純なみことばの中に、とてつもない内容が隠れています。今までイエス様は、選ばれたイスラエルの民のために宣教をし、奇蹟を行い、みわざを起こしてこられました。しかし、このとき、イエス様は、異邦人の地である「ツロとシドンの地方」に行かれます。捨てられ、のろわれた民とされていた異邦人のための働きを始められたのです。 まず、イエス様がツロとシドンの地方に伝道の方向を変えられたことについて考えてみましょう。イエス様は公生涯を始められたときから、ユダの地でイスラエルの民に神の国の福音を宣べ伝えられました。しかし驚いたことに、信じるべきパリサイ人と律法学者たちは、イエス様を歓迎しませんでした。まことの光がご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかったのです(ヨハ 1:11)。 旧約時代からイスラエルの人々は「救いは自分たちだけのものだ」と考え、異邦人には救いはないと考えていました。それで、彼らはユダヤの地は聖なる地で、異邦人の地はのろわれた地だと考えていました。 しかし、イエス様の考えは全く逆でした。救われるべきイスラエルの民が福音を拒むと、その福音を約束の民ではない異邦人に向かって流されたのです。それが、この箇所のテーマです。もちろん、救いは選ばれた民から始まりますが、そこで終わるのではありません。救いの完成は、全世界の民にまで至るようになるのです。それでイエス様は、「すべての民族を弟子とし、父と子と聖霊の名によって聖霊を授けなさい」と言われたのです。 神様の救いのご計画は永遠で宇宙的な規模です。決してイスラエルの民だけにとどまってはいません。神様の救いのご計画は、私たちすべてに臨み、全宇宙に満ちるものです。 私たちはイエス・キリストを受け入れて信じました。それが自分のためだけのものだと考えるなら、それは間違いです。すべてのクリスチャンを通して全世界の民が救われるのが、神様のご計画です。 私たちは、神様を制限してはなりません。教会を制限してはなりません。救われた人たちは教会に来ますが、その教会を通して神様はすべての人々が救われることを願っておられます。貧しい人も、病んでいる人も、絶望している人も、親のいない子どもたちも、みな救いが必要なのです。私たち自身の救いだけでなく、先に救われた私たちを通して、すべての人が救われるというところに、さらに大きな目的があるのです。 イエス様はツロとシドンの地方に足を向けられました。では、救われることのない異邦人、のろわれている者とみなされ、犬呼ばわりされていた異邦人に、どうしたら救いが臨むのでしょうか。
娘が悪霊に取りつかれたカナン人の女 イエス様が異邦人の地であるツロとシドンの地方に入られると、そこにひとりの女が現れました。 「すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。『主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです』」(マタ 15:22)。 カナン人とは、バアルとアシェラに仕えていた民です。この女は、まさにそのカナンののろわれた民の子孫です。マルコの福音書7章26節に「ギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった」という説明があります。ここでギリシヤ人とは、ギリシヤ人の子孫ということではなく、ギリシヤの宗教の伝統を受け入れていたという意味です。彼女は雑多な偶像に仕えていたに違いありません。人はだれでも神様を知る前には、雑多な偶像に仕えています。単なる石を拝み、水を汲んではそれに向かって拝し、お札を貼ったりもします。不安なので、雑多な神々に仕えるのです。この女もそのような者のひとりでした。 この女に深刻な問題が生じました。愛する娘がひどく悪霊に取りつかれたのです。これは、現代医学でも解決することができない大変な問題です。愛してやまない娘が悪霊に取りつかれてあちこち転げ回り、狂ったようにうろつく姿を想像してみてください。その両親の心情はどんなものでしょうか。心がずたずたに切り裂かれていたことでしょう。最近は、自分の子どもが大学に落ちただけでも、胸が張り裂けそうだと言います。しかし、大学に落ちたことが、そんなに大事件でしょうか。ここに出てきたカナン人の女の心情に比べれば、大したことではありません。自分の娘がひどく悪霊に取りつかれるというのは、耐えがたい苦しみです。 そこで、この女はどうしたでしょうか。おそらく、自分の信じていた神々に訴えたことでしょう。供え物をささげたり、あらゆる手段と方法を用いて娘を治そうとしたことでしょう。しかし、自分の神々にどんなに訴えても、何の応答もありませんでした。 一般の宗教は、苦しみがない時は満足を与えます。しかし、深刻な苦しみが生じたときに、無能なことが明らかになります。ひどい悪霊が娘に取りついたことに気づき、絶望的な状況に陥ったとき、この女は自分がこれまで信頼して仕えてきた偶像の宗教には何の力もないということを悟ったのです。その時から、彼女は悩み、葛藤しはじめました。その苦しみは、彼女の目が神様に対して開かれるきっかけとなりました。そのようにして、この女はイエス様のもとに来たのです。
イエス様の沈黙と拒絶 彼女はイエス様に会ったことがありませんでした。ただ、イエス様についてのうわさを聞いたくらいだったでしょう。彼女は自分が頼ってきた偶像の宗教をすべて後にし、自分の知識や方法もすべて捨て、一度も会ったことのない若いイエス様のもとにやって来ました。そして、何と言ったでしょうか。 「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」(マタ 15:22)。 この女は、弟子たちの周りで、おそらくわめきちらしたことでしょう。全く知らない若いイエス様に向かって、そのように叫んだのです。体裁や偏見、プライドなどを捨てた状態であることがわかります。この女がどれほど深刻であったかということは、弟子たちの反応を見てもわかります。 「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、『あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです』と言ってイエスに願った」(マタ 15:23)。 弟子たちは、イエス様のみもとに来て「あの女はうるさくてたまらないので、さっといやして送り返してください」と言ったのです。このみことばから、彼女がどれほど切実にイエス様に訴えたのかが想像できます。ところが、それに対するイエス様の反応は、沈黙でした。イエス様は、一言もお答えにならなかったのです。実に驚くべきことです。なぜなら、イエス様はそれまで悪霊を追い出したり、病をいやしたりすることを願ってやって来た人に対して、沈黙されたことがなかったからです。では、イエス様のその後の反応を見てみましょう。 「しかし、イエスは答えて、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません』と言われた」(マタ 15:24)。 これもおかしなことばです。なぜなら、イエス様はそれまで、どんな場合でも断ったことがなく、願った以上にあわれみを施し、愛してくださったからです。愛される資格の有無を問わず、救いの御手を差し伸べてくださいました。ところが、ここでは沈黙した後、弟子たちがうるさく言うと「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていない」と言って拒まれました。何か、特別な意図があるように思われます。 -次号に続く-
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