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クリスチャン人生論 ⑩
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神論:神の聖さ 聖さ、人間らしい正しい人生 |
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ユ・スンウォン デトロイト韓国人連合長老教会 主任牧師
神の本質、「聖さ」 神は聖なる方です。「聖さ」という用語は神から出たものです。イザヤ書だけでも20回も登場する“ケドーシュ イスラエール(laer"f.yI vAdq.)”は、「イスラエルの聖なる方」という意味です(イザヤ書29章23節では「ヤコブの聖なる方」と訳されている)。「王、父、牧者」など、人間に該当する単語から類推せずに神を表現できる言葉は、「聖なる方」です。神の存在そのもの、神の本質が聖なのです。 イザヤは、神殿で高くあげられた王座に着かれた神を見ましたが、セラフィムの賛美以外のことばでは描写することができませんでした。「聖なる、聖なる、聖なる」(イザ 6:3)。聖さが神ご自身なのです。 聖さ(カドーシュ)という単語の語源的意味は、「区別される」、「明るい」です。「区別される」とは、罪や悪と少しも混ざっていない“超越性”を指します。「明るい」とは、汚れも暗い部分もない“純粋さ”と“きよさ”を特徴とします。罪が全くない状態です。暗く、曲がり、歪んだものが全くない“完全さ”です。だから「栄光」なのです。明るい光です。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません」(ヤコ 1:17)。 あなたがたは聖なる者となりなさい 聖さは無情な「原理」や「原則」ではありません。聖なる神は被造世界に愛と関心を持って、被造物と人格的な関係を結ばれる方です。特に、人をご自分の「かたち」に造られ、創造主なる神の心と性質を反映されました。 神は、最初の人間アダムが罪を犯した後、壊れた世界を回復するためにアブラハムを呼び、その子孫をご自分の民にされました。そして、モーセの時代に力強く、切実に命じました。「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」(レビ 11:45)。これが神の御心です。使徒ペテロも神の御心を確認します。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです」(Ⅰペテ 1:15~16)。 神が、私たちに対して持っておられる期待値は、実に高いものです。私たちはどうすれば聖くなれるのでしょうか。このような負担と悩みは、聖さが何であるのかを理解できないことから生じます。まず、聖さは私たちのものではないということを理解しなければなりません。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」という神の命令は、私たちの本質が神のようにならなければならないという意味ではありません。人としての性質を脱ぎ捨て、神のような存在にならなければならないという意味ではないのです。人間が本質を変えて神のようになろうとすることは、むしろ深刻な罪です。そして、それは可能なことでもありません。アダムとエバがそうでした。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(創 3:5)。これは聖さではなく、自分自身の偶像化、または自己神秘化です。本質を神のようにしようと、神のコスプレをすることは、聖さではなく大きな罪です。
イエスとパリサイ人のうち、どちら聖いか パリサイ人とイエスの姿を聖書どおりに描写してみます。 ・ パリサイ人 聖書を多く知り、よく引用する。安息日を正確に徹底的に守る。什一献金を徹底して行う。人が多く集まる場所でも恥ずかしがらず、手を高く上げて祈る。1週間に3度断食する。下品な人たちとは交わらない。衣服のふさが長い敬虔な服装をして、聖書個所を記した経札をつける。食事の前に毎回手を洗う。律法をしっかり守るために、さらに細かい定めをたくさん作る。人々から尊敬され、ラビと呼ばれ、道で多くの人たちからあいさつされる。 ・ イエス 聖書を直接引用するのはまれである。代わりに、面白い話をたくさんする。悪い息子、強盗にあった人、種を蒔く農夫、ぶどう園、遠い所に行った主人とお金を任されたしもべ、結婚式の場面など、宗教人の目から見れば、世俗的だと思われるような話をたくさんする。「目の中の梁」のように、誇張された表現をよく使う。イエスとともにいた人々が安息日に麦の穂をつんで食べたりもする。取税人や罪人など、質の良くない人たちと食事をすることを好み、「食いしんぼうの大酒飲み」と非難される。周りがいつも騒がしく、子どもと女たちがいつも群がっている。聖なる神殿の庭でいけにえを売る人や両替商を宮から追い出す。人々から尊敬されるパリサイ人を「まむしのすえたち」と呼び、ヘロデの家に対しては「狐」という侮辱的な発言をする。
パリサイ人とイエスでは、どちらが聖いでしょうか。イエスと言いたいところですが、その前に私たちの偏見があります。聖さは神をコスプレする行為ではありません。パリサイ人は神をコスプレするのに神経を使い、外見的な聖さを追求しました。しかし、これは神が望まれる聖さではありません。少しでもパリサイ人のほうが聖いと感じたなら、私たちも「偽りの聖さ」に洗脳されているのです。 私たちの聖さは、神の真似をして神のようになることではなく、神が私たちを造られた時に意図された通りに、人間らしい人間になることです。これが、神の聖さと人間に求められる聖さとの、質量的な違いです。 聖さは特別なものではない 人は「聖い」という単語を聞いただけでも、窮屈に感じる傾向があります。「聖さ」を普通の人とはかけ離れた、特別で特殊なものと考えるからです。しかし、人間に求められる聖さは、日常とはかけ離れた異常な特質ではありません。神が求められる聖さは、きわめて正常な人間として生きることを意味します。 「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです」(Ⅰテサ 4:3~6前半)。聖さを命じるこの個所で扱っているテーマは何でしょうか。通念的には聖さとはかけ離れた性に関することです。 神が創造された「性」は聖いものです。この勧めの意味は、「ほかでもなく自分の妻を愛して一緒に寝ることが聖さです。異邦人のように情欲におぼれて悪いことをしないでください。神が許された美しい性をわきまえて、同性のほかの兄弟に害を加える異常な性行為をしないでください」ということです。 ここで性は「聖」です。性行為を遠ざけることが聖なのではなく、自分の妻と性行為することが聖であり、結婚関係の中で夫と妻が愛し合うことが聖いことです。神が創造された性は、美しく聖いものなのです。 聖さは実に日常的なものです。何が聖くないのでしょうか。正常ではないものが聖くないものです。性欲が聖くないのではありません。性欲は神が創造されたものであり、聖なるものです。しかし「情欲」と翻訳された“パセイ エピスュミアス”(pa,qoj evpiqumi,aj)、つまり、「過度に境界を越えた貪欲」の追求が聖くないのです。同性を求めたり、配偶者ではない人によって情欲を満たそうとすることが、聖くないことなのです。
聖さは簡単である 「聖さ」とは何でしょうか。それは、実に正常なものです。聖さは神が意図された姿で誠実に正常に愉快に生きることです。聖さは私たちのからだで神に栄光をささげて喜ぶことです。心と行いが極めて正常であればよいのです。神から与えられた人生の中で、愛と真実をもって正しく生きるなら、それが「聖さ」なのです。 聖なる神が「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と言われました。神は、私たちの罪のためにイエスを遣わし、十字架で死なせ、そのイエスを信じる者たちに聖霊を遣わして聖くしてくださいました。その結果、私たちは“ハギオイス”(a`gi,oij、聖なる人々)、つまり、聖徒となりました。争いの多かったコリントの信徒たちも、イエス・キリストにあって、人間に与えられる最高に栄光ある尊称である“ハギオイ”(saints、聖徒)と呼ばれました(Ⅰコリ 1:2)。 聖さは難しいものではありません。聖さは正常であり、簡単で軽いものです。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタ 11:30)。私たちは、イエス・キリストにあって自分を神の祭壇に生きた供え物としてささげるだけでいいのです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ロマ 12:1)。
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