パク・グンス牧師が義政府ビジョン教会に赴任した2005年、 教会は建築の問題で財政的に破産状態にありました。 すばらしいプログラムも、力強いカリスマもありませんでした。 ただみことばに従うことによって勝利された話を、パク牧師にうかがいました。
「アイデア」よりも「従順」 私は、盆唐のある教会で副牧師として仕えていたときに、義政府ビジョン教会の主任牧師として招聘を受けました。いざ教会に来てみると、入口はコンテナでふさがれ、1階のロビーは差し押さえの債権者たちでいっぱいでした。聖徒が80名ほどだった教会が、大きな建物の建築中に不渡りを出したのです。神様はそのような状況を逆転させ、私自身にも理解できないリバイバルを与えてくださいました。毎年教会員がどんどん増え、財政が安定し、教会の建物も取り戻すことができました。何よりも、信徒一人ひとりが生き生きとした信仰を持つようになりました。みことばの力を経験したからです。赴任初期には、前任牧師が教会を離れたことを知らず、教会に電話をかけてきては、あれこれ文句を言う債権者がたくさんいました。連帯保証をした教会の役員たちは気苦労が絶えませんでした。その頃に黙想したみことばは、詩篇23篇です。神様は敵の前で食事をととのえてくださると言われました(5節)。そして、つらい状況を通して神様を経験できることが御心であるということを示してくださいました。説教の時間にQTによって与えられたみことばをそのまま宣言し、私たちの教会は、敵の前で食事をととのえてくださる神様に出会うというみことばを伝えました。そして、家庭を一軒一軒訪問しながら、私が黙想したみことばを分かち合いました。信徒一人ひとりに神様が与える慰めと勧めのみことばを伝えました。私に独創的なアイデアがあったわけではありません。神様が伝えるようにと命じられたことに従っただけです。すると、信徒たちも神の御声を聞くためにQTを始めました。 QTは「デート」 まず、みことばを理解できるよう聖霊の助けを求めて祈ります。聖書から神様、イエス様、聖霊様を見いだすために、みことばを何度も読みます。そして、自分に与えられる教訓を探します。黙想した内容で主と対話をします。そのように悟ったことを書き出し、その日のうちに実践できる適用を2つほど考えて書きます。 私だけの特別なQTの方法があるわけではありません。人生を変えるのは、何か特別な方法ではなく、「習慣」です。良い習慣が身につけば、その人に変化が起こります。習慣が積み重なってできるのが私たちの人生です。つまり、QTは神の秩序に従う従順の習慣を形成する時間だと言えます。 私たちの教会に来るすべての聖徒は、QTをするシステムの中に入ります。私が早天礼拝で『リビングライフ』の本文で説教し、教会に新しく来た人は「一対一養育訓練」を受けながらQT文化を吸収します。最初はQTが楽しくないかもしれません。しかし、みことばを黙想しながら神様に集中していると、神様が背後から抱きしめてくださっているような温かさを感じます。みことばを通して神様と対話し、交わる喜びを味わいます。そのような意味で、QTは「デート」です。 私の場合は、特に「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」(コロ 1:16後半)というみことばによって人生が変えられました。私は大胆な性格ではなく、多少気が小さいため、牧会者としてのカリスマはありません。しかし、コロサイ人への手紙1章のみことばでQTをしている私に、神様は「人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。被造物はみな被造物だ」と語ってくださいました。このみことばは、私の中にあった劣等感、自己卑下の感情を一瞬で解消してくれました。人に会うときの恐れもなくなりました。神の前ではすべての人は同じ被造物であるため、ほかの人のようになりたいという欲望もなくなりました。神様が造られた私の独特な個性と才能に基いて用いられるようにと祈るようになりました。
愛によって実を結ぶQT また、1万タラントの借金を帳消しにされた者が、100デナリの借金のある同僚を迫害するマタイの福音書18章のたとえを黙想しながら、関係の重要性を悟りました。どんな代価を払ってでも和解することが神の御心であることを知りました。人間関係において、ひとりでも、私が先にだれかを嫌ったり拒んだりしないよう、心に決めました。すべての被造物を大切にされるいつくしみ深い神様を、私の心の中心にお迎えしたのです。神様とデートする時間としてQTをしながら、神様の愛を味わい、私たちを造られた目的のままに、神様に尊く用いられることを願います。
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