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マタイの福音書の恵み 89
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人間の言い伝えと主のおしえ ① [ マタイの福音書15章1~3節 ] |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。 「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。 パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか」(マタ 15:1~2)
パリサイ人と律法学者たちの関心事 聖書に見られるイエス様は、病んだ者をいやし、おなかをすかせた群れに食べさせられる、あわれみ深い方です。大勢の群れがご自分のもとに来た理由が何であれ、どんな理由で病気になり、どんな理由で苦境に陥ったのだとしても、イエス様は無条件にあわれみと愛をもって助けてくださいました。温かい心、受け入れる心、理解する心、慰めて励ます心が、まさにイエス様の心です。 しかし、パリサイ人と律法学者たちは違いました。多くの人々が苦境に陥り、悩んでいたにもかかわらず、彼らは宗教的な論争と長老たちの言い伝えだけに関心がありました。 マタイの福音書15章1~2節に見られるパリサイ人と律法学者たちの関心事は、おなかをすかせた人でも、病で苦しんでいる人でも、絶望して泣いている人でもありませんでした。彼らは、言い伝えを守るかどうかという問題だけにしか関心を持っていなかったのです。実に悲しいことです。 教会も同じです。教会の目的は何ですか。神様に礼拝をささげ、賛美し、祈り、隣人を愛することです。熱心に伝道し、奉仕し、キリストのからだである共同体として存在しているのが、教会です。ところが、それらのことには関心がなく、些細で不必要なことに神経を使い、言い争いばかりしているとしたら、神様はどれほど悲しまれることでしょう。中世の教会がそうでした。教会の本質を忘れ、制度や形式だけに関心がありました。 今日の教会、つまりクリスチャンは、何をすべきでしょうか。イエス様のみことばを通して、私たちは大切なことを学ばされます。パリサイ人と律法学者たちがイエス様のところに来て抗議した内容は何でしたか。なぜイエス様の弟子たちは食事の前に長老の言い伝えどおりに手を洗わないのかということでした。 もちろん、この問題は重要です。特に、旧約においてきよめの問題は救いと関連したものでした。そのため、食べられるものと食べられないものがあり、触れられるものと触れてはならないものがありました。そのようなことが神様に仕え、自分たちが救われることにおいて、非常に重要だと考えられていたからです。それで、家に入る前に必ず手を洗い、食事の前にも手を洗いました。それが神様に対して忠実なことだと考えられていたのです。その当時、あるラビが投獄され、獄中でいのちを維持するだけの少量の水と食事が与えられました。そのときラビは、長老の言い伝えを守るために、死を覚悟でその水でまず手を洗ったそうです。そのラビには、それが重要だったのです。 一度、言い伝え(伝統)に縛られてしまうと、抜け出すのが大変です。「今までやってきたことだし、私たちの教会は今までこのようにやってきたのだから、こうしなければならない」と堅く信じ、その考え方を変えることがとても難しいのです。実はそれほど重要なことではないのに、伝統的にそのようにしてきたので、それをしなければ罪であるかのように恐れます。しかし、「なぜ手を洗わないのか」という問題は、さほど重要なことではないのです。
主の戒めを犯す人間の言い伝え このように言い伝えに捕らわれたパリサイ人と律法学者に対し、イエス様は「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか」(マタ 15:3)と言われました。神様を愛するために言い伝えを守り、主のことばをよく守るために言い伝えが必要だったのに、今では逆に、その言い伝えによって主の戒めを犯していると言われたのです。 ここでの問題の核心は、パリサイ人と律法学者たちが人間の言い伝えと主の戒めを同一のものとしてとらえていた反面、イエス様は、主の戒めと人間の言い伝えを全く別のものと見ておられたことです。これは、私たちの信仰の核心であるとも言えます。主のことばだと主張していることや信じていることが、主のことばのように見せかけた、人間の伝統や考えである可能性があるということです。 大学生の頃、ある宣教団体で奉仕をしましたが、そのとき、私はこのような過ちを犯しました。その宣教団体はイエス様を熱心に信じている団体だったので、私はその宣教団体で熱心に奉仕していました。その団体に献身することが、イエス様に献身することだと思っていたのです。それで、死ぬほど忠実に働きました。ところが、ある日、ふと「私は神様に仕えているのだろうか、団体に仕えているのだろうか」という疑問が生じました。ここで心の葛藤が起こりはじめました。 私たちは、神様に仕えると言いながら、自分たちが作った慣わしや制度に熱心に仕えるという過ちを犯しやすいものです。そして、それを正当化します。神様に仕え、神様のことばに従っていると勘違いするのです。 聖書、教会、信仰に対して献身的で熱心な人がいるとしましょう。その人から信仰的な献身と熱心とはかけ離れた汚れた姿が見え、多くの人から非難されているとしたら、どこに問題があるのでしょうか。彼は、熱心に神に仕えていると思っていたのに、実は、彼が従ったみことばは主のことばを装った人間の言い伝え(考え)であったので、その実が悪いものだったのです。人と言い争い、赦すことができず、何らかの制度に縛られて、結果的に霊的に凝り固まってしまい、イエス様が最も望まれない姿に変えられてしまったのです。 人間の言い伝えは、神のことばではありません。神のことばのように見せかけた考えに過ぎません。神様のことばは、神様から出るものですが、言い伝えや制度は、歴史の産物にすぎません。もちろん、長老たちの言い伝えは、最初は神のことばをよく解釈し、守るために作られたものでした。「姦淫してはならない。殺してはならない」という戒めをどのように守るかと悩んだ結果、「姦淫しないためには、殺さないためには、このようにしなければならない」と解釈しはじめました。ところが、その解釈が本質よりも重要なものになっていったのです。そして後には、長老たちの言い伝えが神のことばと同等の権威を持つものとして受け入れられるようになりました。 ここに危機があり、堕落があります。なぜ異端が生まれるのでしょうか。神のことばとは違う、人間による言い伝えのために生じるのです。なぜ教会に毒性が生じるのかというと、人間の言い伝えに神のことばと同じ権威を置くからです。宗教改革において重要な働きをしたカルヴァンは、偉大な信仰者でした。しかし、カルヴァンに従い、彼の思想を追求しつづけたカルヴァン主義者たちは、イエス様と最もかけ離れた、宗教的な人たち、つまり、白でも黒でもない、中途半端なグレー人間へと化してしまいました。このように、制度や教派に縛られるなら、後に神様と相反する立場に立つようになるのです。 パリサイ人たちは、神様を無視しようとしたわけではありません。パリサイ人は区別された人であり、神様に仕えるために完全に献身した人たちでした。しかし、彼らが神様によく仕えようとして始めたことが、結果的にはイエス様と正反対の方向に向かってしまいました。教会を愛し、教会のために始めた働きが、いつの間にか教会と正反対の立場に立つようになってしまうというのは、今日でもよく見られることです。私たちの目標とすべきは、キリストの人を作ることでなければなりません。 教派は重要です。しかし、教派が神になることはできません。権威も重要です。しかし、権威主義は良くありません。教理は尊いものです。しかし、教理で人を縛ってしまうことは良くありません。そうなれば、結果的に教理論争に巻き込まれることになり、その論争は挙句の果てに、イエス様を信じる人々を互いに敵対関係にしてしまうのです。人間の言い伝え、人間の習慣、人間の方法が神のことばの代わりとなり、神のことばの位置まで上りつめると、このような現象が生じてしまうのです。実に悲しいことです。
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