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マタイの福音書の恵み 88
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岩のような信仰も墜落は一瞬です [ マタイの福音書14章22~33節 ] |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、 恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、 「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた(マタ 14:26~27)。
湖で暴風と波に襲われて絶望している弟子たちのところに、イエス様が歩いてこられ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。それを聞いたペテロは、「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」(マタ 14:28)と言いました。このことばには、ペテロの信仰の薄さが現れています。湖の上を歩いてこられたイエス様を見ながらも、それがイエス様だと信じられなかったのです。ほかの弟子たちも同様に、イエス様を見て、幽霊だと思って恐れました。 このことから、信仰とは、単に奇蹟を体験したからといって生じるものではないことがわかります。ある人は「神様を見せてくださったら信じます」と言い、またある人は「この問題を解決してくださったら信じます」と言ったりします。しかし、本当にそうでしょうか。 5つのパンと2匹の魚の奇蹟を体験しても、湖の上を歩いてこられた主に向かって「主よ、あなたは主ですか」と聞いているのを見ると、奇蹟を見たからといって必ずしも信じるわけではないことがわかります。神様を見たなら信じますか。それでも信じる人は信じ、信じない人は信じないのです。奇蹟を体験することによって信仰が増すのではなく、信仰があるから奇蹟を見て、信仰があるからそれが奇蹟だと解釈できるのです。ですから信仰とは、まず神様に信頼し、イエス・キリストを自分の主として受け入れることを意味します。イエス様に対する信頼と信仰があるとき、すべての奇蹟は意味を持ち、救いが臨むのです。 ところで、このようなペテロに対し、イエス様はどのように答えられましたか。 「イエスは『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った」(マタ 14:29)。 イエス様は即座に「来なさい」と言われました。イエス様はペテロに信仰の薄いのをご存じでしたが、ペテロに機会を与え、祝福してくださいました。なぜでしょうか。そこには二つの理由があります。 第一に、ペテロを深く愛しておられたからです。私たちに信仰がなくても、神様は愛してくださいます。信仰よりも愛のほうが偉大なのです。しかし、信仰がなくては救いはありません。第二に、このような失敗を通して、真の信仰を教えるためです。実際、ペテロはイエス様を愛していました。だからこそ、網を捨てて従ったのです。しかし、まだ成熟した信仰がなく、臆病で、大言壮語しました。しかし、イエス様はそんなペテロを見捨てませんでした。私たちはペテロよりも信仰が不安定で、未熟で、罪深いかもしれません。しかし、主は、「来なさい」と言って私たちを迎えてくださる方なのです。 このようなイエス様の返事を聞いて、ペテロはどのように行動したでしょうか。 「そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った」(マタ 14:29)。 ペテロは海に慣れていて、水の上は歩けないということをよく知っていましたが、水の上に飛び降りました。そして、水の上を歩きはじめました。何が起こったのでしょうか。ペテロはなぜ水の上を歩くことができたのでしょうか。それは第一に、みことばの力によります。イエス様は、「(水の上を歩いて)来なさい」と言われました。そのみことばに基づいて行動したとき、ペテロは水の上を歩く奇蹟を体験できました。ある人が聖書を読んで、ペテロが水の上を歩いたのだから、私にもできると考えたとします。そして、40日間断食して祈って備えます。それから、海に行って、水の上に足を踏み出します。すると、その人は水の中に沈んでしまうでしょう。なぜでしょうか。その人の行為は、自分の考えから出たものだからです。 ペテロが水の上を歩いたのは、イエス様が水の上を歩かれたので自分にもできると考えたからではありません。来なさいとイエス様が言われ、そのみことばに従って水の上に足を移したからです。これは、自分の考えや信念とは違います。主のみことばがあり、そのみことばは力なので、それに従ったとき、水の上を歩くことができたのです。 第二に、荒波や強風を見ないで、水の上に立っておられるイエス様だけに目を向けたからです。ペテロはイエス様だけを見て、自分の考えをイエス様だけに集中させました。そして、そのみことばに頼って飛び出したとき、驚いたことに水の上を歩いていたのです。私たちは、世の環境を離れて生きられず、環境を無視することもできません。しかし、環境よりも偉大なイエス様を見上げるとき、私たちの人生でこのような偉大な奇蹟を経験できるのです。 「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った」(マタ 14:30)。 水の上を歩いていたペテロが水の中に沈みかけました。私たちも、イエス様を信じ、主のみことばに触れ、深く浸るなら、この時のペテロのように超自然的な人生を経験します。本当にイエス様に出会ったなら、すべての人に親しみを感じ、今まで理解できなかった人も理解できるようになります。不可能なことが可能に思えます。このような信仰を持てば、人々が否定的に見ていることも、肯定的に解釈できるようになります。ところが、ある時、すべてのことに不満を感じ、不快になり、文句を言いはじめている自分に気がつきます。自分こそ神様を最もよく信じていると思い、自分以外のすべての人たちを罪に定めます。このような姿こそ、自分が水に沈んでいるという証拠です。感謝を失ったということ、不平が生じはじめたということは、水の中に沈んでいる状態なのです。 ところで、ペテロが水に沈んだのは、自然なことです。同様に、私たちが利己的で、欲深く、ずるがしこい人間であることも、自然なことでした。私たちは水の中におぼれて、もがきながら生きて当然の存在なのです。それにもかかわらず、イエス様を信じてから、愛せなかった人を愛せるようになり、赦せなかった人を赦せるようになったのです。ですから、ペテロが一瞬でも水の上を歩いたこと自体が、驚くべきことであり、奇蹟でした。 では、ペテロはなぜ水の中に沈みかけたのでしょうか。聖書は「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので……」(マタ 14:30)と説明しています。このみことばの意味は、第一に、イエス様ではなく、環境を意識したということです。ペテロは最初は主のことばを聞いて、何も考えず水の上に飛び出しました。しかし、水の上を歩いているうちに、正気に戻りました。信仰から理性に戻ったのです。すると、彼は恐れにとらわれ、水におぼれはじめました。 そのとき、ペテロはどうしましたか。大声で「主よ。助けてください」と叫びました。水の中に沈みかけて、非常な恐れの中で「主よ!助けてください!」と叫んだのです。私たちにも、このような切実な叫びが必要です。いのちがけで叫ばなければなりません。どうして祈っても答えられないのでしょうか。気楽に祈ったからです。深刻さ、真実さ、緊迫さがないからです。食べて、寝て、することは、すべてしておいて、「主よ。助けてください!」と言うのは、祈りではありません。絶体絶命の状況の中での切実な叫びが、祈りです。ペテロの叫びは、まさにそのような祈りでした。 「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ」(マタ 14:31~32)。 イエス様は、すぐに手を伸ばされました。緊迫した状況で、すぐさま答えてくださったのです。皆さんも必死に祈ってください。すぐに答えてくださいます。ゆったりした心情で祈るなら、主もゆったりと答えられます。 イエス様は、まず先に手を伸ばして救ってくださり、ペテロを舟に上げた後、「信仰の薄い人だな」と優しく忠告されました。信仰の薄い私たちに、来なさいと言ってくださるイエス様を賛美しましょう。信仰が薄く、水におぼれて死にそうになったときも、私を見捨てず、すぐに手を伸ばして救い出してくださるイエス様を賛美しましょう。主は、今でも私たちを救い出してくださいます。
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