「わたしの子どもたちが、みな幸せだったらいいなあ」とおっしゃる 父なる神の心を持つユ・ジンソ牧師(釜山ホサナ教会主任)は、 QTの霊性を通して「美しい教会、幸せな信徒」を 立て上げようとしておられます。
神に導かれてQTを学ぶ 「QTが何であるかも知らないのに、分かち合いをしろだなんて」。QTをよく知らなかった1992年、オンヌリ教会の教職者修養会で、初めてQTの分かち合いをしました。幸い発表順序に余裕があったので要領良くこなしたものの、一言で言えば、真似ごとにすぎませんでした。大学時代に聖書の学びの中で受けた黙想訓練が役に立ちました。 その後もしばらくは、QTについては漠然としかわかりませんでした。そんな時、折よく新来者クラスのための「QTの実際」という講義を任されました。理論でもなく実践とは……。その時になって初めてQTを本格的に始め、QTに没頭するしかありませんでした。そして、根本的な変化を体験しました。私が経験したQTは、みことばの意味を学ぶ聖書の学びよりも、はるかに力がありました。知識に神の御声を聞くことが加わったのですから、強力にならざるをえないでしょう。 2年ほど経って、ツラノ書院の牧会研究院を任され、QTの普及に携わるようになりました。その時、だれでも簡単にできるQT教材の必要性を痛感しました。そんな中、QTのやり方について案内する著書も書きました。それまでの経験を生かして、体操の動作の順序のように、準備の祈りからみことばの朗読、黙想、適用、そして分かち合いまで、段階に分けて一つ一つ紹介しました。 面白くありませんか。適当にQTの分かち合いをし、QTの実際を講義するために右往左往していた私が、「QTとは何か」に関する本を書いたのですから。実際から理論へと、逆に動いたのです。私よりも私のことをよく知っておられる神様の知恵です。神様は、私が、美しい風景よりも素朴な人々から大きな感動を受け、何よりも人間関係の力強い動きに関心の高い者であることを知っておられたのです。
時にかなって与えられるみことば QTは、神様と対話する時間です。簡単に即答してくださる時もあれば、長い間心の準備をさせて方向を示される時もあります。1996年にLAツラノ書院の院長としてロサンゼルスに行くと、思ってもみなかった教会開拓の要請を受け、悩みました。すると神様は、「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」(マコ 6:34)というみことばを下さり、その結果、ANC オンヌリ教会が誕生しました。 しかし、開拓して20年目になる2015年の冬からは、QTをするたびに「離れなさい!」というメッセージが続きました。「離れてもいいだろうか。私がいなくても大丈夫だろうか」と迷うたびに、神様にゆだねて去るようにという思いが与えられました。心の準備をしていると、釜山のホサナ教会から招聘を受けました。その時、マケドニヤ人の幻を見たパウロが「神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである」(使 16:10)というみことばが浮かび、神の導きだと確信しました。 QTする時は、バランスを保たなければなりません。即答だけを求めるなら神秘主義に陥り、慎重になりすぎると無味乾燥なものなってしまうからです。 個人的につらい時間を過ごしていたとき、「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った」(創 7:11~12)という個所に出会いました。「ただでさえ憂うつなのに、雨まで降るとは。とても苦しいです。神様!」と嘆きが出てきましたが、「水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった」(創 7:17)という個所が目に入りました。「雨がいくら降っても、あなたは箱舟の中にいるんだよ」と語っておられるようでした。雨ではなく、箱舟が強調されたのです。そのとき感じた解放感は、今でも忘れることができません。 改革は教会が日々存在する方法 2017年は、宗教改革500周年の年です。基本、つまり、みことばに立ち返る努力をする必要があります。改革は、単なる歴史的出来事ではなく、教会が存在する方法だからです。 プログラムではなく、霊性によって新たに根づくQT運動が必要です。牧師は、QTしたことを説教し、みことばに従って生き、聖徒は、QTをするように説教を聞いてもらいたいです。説教を通して聞いたみことばに従って毎日を送れば、生きたみことばにより新たにされた霊性をもって世を変えることができます。QTを通して人生の輝かしい春を満喫しましょう。
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