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マタイの福音書の恵み 84
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罪の前で沈黙してはなりません [ マタイの福音書14章1~10節 ] |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
「そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、侍従たちに言った。 『あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。 だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ』」(マタ 14:1~2)
イエス様のうわさが国主ヘロデの耳にまで届きました。王宮にまで届いたというのは、そのうわさがすでに広まっていたことを意味します。ヘロデは、非常に不安になりました。正しいバプテスマのヨハネを自分が死に至らせたため、このことが、いつもヘロデを苦しめていたのです。ヘロデは、イエス様がどんな働きをしているのかを聞き、かつての傷ましい経験を思い出したのでしょう。
バプテスマのヨハネの献身と清貧 これまで私たちは、ヨハネの二つの偉大な面を見てきました。その一つは、彼の信仰的な側面です。ヨハネは、神様に対して熱意のある人でした。ヨハネが世に来たのは、イエス・キリストの道を備えるためでした。マタイの福音書3章11節で、ヨハネはイエス様に対して「私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません」と言いました。これがイエス様に対するヨハネの態度でした。ヨハネは、徹底したイエス様のための人であり、イエス様の道を整えるために来た神の人でした。信仰深く、情熱的で、自分の人生を完全にイエス様のためにささげた偉大な人でした。 もう一つの偉大な点は、ヨハネの私生活です。彼の私生活は、実に清貧なものでした。彼は、当時のほかの宗教指導者たちのように、いくらでも華やかに暮らすことができましたが、エルサレムではなく荒野を選び、そこで清貧に過ごしました。王宮できらびやかな服を着て、ごちそうを食べる暮らしを拒み、らくだの毛の着物を着、いなごと野蜜を食べることを選んだのです。とことん乏しく暮らし、持ち物もありませんでした。それでいながら、全面的に与える人生でした。これが、バプテスマのヨハネの個人的な人生です。 ヨハネの不義に対する正義感 しかし、きょうの個所を見ると、ヨハネの驚くべき新たな面を発見します。それは、不義に対する正義感です。 「実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕らえて縛り、牢に入れたのであった。それは、ヨハネが彼に、『あなたが彼女をめとるのは不法です』と言い張ったからである」(マタ 14:3~4)。 ヨハネは、不義を見て、それをただやり過ごしはしませんでした。世が腐っていくのを見て、権力層が腐敗し、不義が独裁するのを見て、ヨハネは沈黙しませんでした。 国主ヘロデは、領土の四分の一の統治権を持つ王でした。ローマの権力のもとで民族を裏切り、政治的な野望を遂げた人です。彼の権力は、とてつもないものでした。国の半分の土地であっても、自分の思いどおりに人に与えることができました。自分勝手に人を逮捕し、殺すこともできる独裁権力を持っていました。彼は、政治的な独裁者であり、道徳的にも悪名高い人でした。弟の妻ヘロデヤを奪って自分の妻とするような人でした。自分の本妻を追い出し、自分の弟も遠方に追いやりました。しかし、すべての人が王の過ちを知っていましたが、怖くて沈黙していたのです。 この沈黙を破ったのが、バプテスマのヨハネです。王の過ちを指摘すれば、自分に害が及ぶのは明らかです。死ぬことになるかもしれません。そんなことを訴えなくても、ヨハネはきよい人生を保つことができました。しかし、ヨハネは王の過ちを指摘しました。 ここで、私たちは悩みます。過ちであるとわかっていながらも沈黙し、不義であると知りながらも目をつぶる人たちが、あまりにもたくさんいるからです。クリスチャンは、教会に熱心に通い、聖書の学びにも出て、生活面でも人に迷惑をかけることや悪いことをしないかもしれません。しかし、今日のクリスチャンは、世の不義や不正に対して無力で、無感覚になっているのが現実です。ヨハネは政治的行動を取ったのではありません。不義に対して沈黙しなかったのです。 結果的にヨハネは捕らえられ、死ぬことになります。それは、宗教的な理由でも、個人的な歩みによるものでもありませんでした。不義に抵抗したためでした。今日、私たちが不義に対して、世の数多くの罪悪に対して沈黙しているから、国家と社会の問題がこのような状況まできてしまったのかもしれません。世がこのように堕落したのは、クリスチャンの沈黙と無気力のためかもしれません。 ヨハネは、すべての人たちが沈黙している事実に対して、沈黙しませんでした。不義を指摘し、不義に抵抗しました。もちろん、ヨハネが不義を指摘して、その時代が変わったと言うことはできません。その時代は、ヨハネだけでなく、イエス様までもが処刑されるような、悲惨な時代だったからです。しかし、私たちがこのみことばから学ぶべき点は、それにもかかわらず、ヨハネの信仰と清貧な人生だけでなく、不義に対抗し、その結果として死んだ彼の正しい人生が、今日のクリスチャンの模範となり、美しく輝きをもっているということです。 つまらない誓いがもたらした殺人 では、ヨハネを殺したヘロデは、どんな人でしょうか。第一に、罪悪感により、良心の呵責に悩んでいる人でした。14章2節を見ると、ヘロデは明らかに深刻な罪責感にさいなまれていました。イエス様の働きを見て、「あれはバプテスマのヨハネだ」と言いました。極度の精神錯乱状態です。自分が犯した恐ろしい罪に対する強い良心の呵責、それによる不安、焦り、恐れが、彼を支配していたのです。そのような人が権力や富を持っていても、何ができるでしょうか。夜ごと罪意識や良心の苦しみと悪夢にさいなまれるのなら、いくら権力や富を手にしていても、不幸なのです。 第二に、ヘロデはつかの間の快楽のために不道徳な人生を選んだ人です。もともと彼の妻はアラブの王の娘でした。ところが、弟の妻である狡猾で魅力的なヘロデヤを新しい妻として迎えました。ヘロデは、つかの間の楽しみのために、理由もなく妻を捨てました。また、生きている弟の妻を奪いました。それは、律法で禁じられていることです。 ヘロデに限らず、過ちだと知りながらも、妻以外の女性を愛し、二重生活をすることを選ぶ人々がいます。また、肉体的な快楽のために、ある人は子どもを作らなければならないという言い訳をして、別の女性に会うという愚かな選択をする人々もいます。しかし、ヘロデの選択が悲惨だったように、そのような人々の結末も悲惨なものになります。 第三に、ヘロデはつまらない誓いによって正しい人を殺した人です。だれでも自分の弱点や罪を指摘する人を嫌います。ヘロデは、ヨハネが自分の弱点を指摘したとき、ヨハネを憎み、殺したいと思ったことでしょう。しかし、ヨハネを愛する多くの民衆を恐れて、牢に閉じ込めることしかできませんでした。ところが、ヘロデの誕生祝いの席で、ヘロデヤの娘がヘロデの前で踊りを踊ったとき、ヘロデはそれを喜んだあまり、またもや過ちを犯します。願うものは何でも必ずやろうと誓ったのです。8節を見ると、幼い娘はヘロデヤにそそのかされて、ヨハネの首を求めます。そこでようやく、ヘロデは自身の過ちに気づき、悩みます。 「王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した」(マタ 14:9)。結局ヘロデは、ヨハネを殺す決意をします。それは、間違った誓いのためであり、自分の体裁のためです。多くの家来の前で、自分の権威が傷つくことを恐れ、拒むことができなかったのです。 自分の過ちを認めるのが、真の勇気であり、真の実力です。実力のない者は、自分の過ちを認めません。しかし、本当に実力のある人は、自分の過ちを認めます。強い人は、自分の弱点を認めるのです。結局、ヘロデは、人前で恥をかく勇気と、自分の過ちを認める勇気がなかったために、バプテスマのヨハネを殺してしまいました。 私たちの周りにも、ヘロデのような人々がたくさんいます。このような人々が正義を殺すのです。私たちクリスチャンは、バプテスマのヨハネの姿から学び、彼の人生にならって人生の方向を決めなければなりません。
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