ユ・スンウォン デトロイト韓人連合長老教会 主任牧師
キルケゴールは人間のことを「神の前に立つ単独者」と言いました。人間は、別の人格体と混ざることができない唯一無二のたましいです。同じ日に同じ母親から生まれた双子であっても、「ひとり」で生まれます。だれかのためであっても、代わりに痛みを受けることはできません。代わりに生きてあげることも、代わりに死んであげることもできません。イエスを代わりに信じることもできず、神のさばきの座には、ひとりで立ちます。ですから、人間は単独者です。しかし、同時に人間は、ひとりでは決して人間になれない単独者です。
人間は社会的たましい 人間はひとりでは人間になれません。失踪して他の動物の間で育った子どもの事例を見ると、彼らは言葉を話せず動物の声を出し、食べ物を食べる際に手を使わず、口で生のまま食べます。人間に生まれても、人間が生きる場所にいなければ人間にはなれないのです。犬は人間が育てても犬です。しかし、犬に育てられた人間は、犬のようになります。人間は人間が育てるとき、真の人間になります。人間が育てなければ「人間であること」に深刻な問題が生じ、厳密には人間になれないのです。 人間は、どこに生まれたとしても、そこにはすでに先に暮らしてきた人々によって形成された文化があります。言語、慣習、価値、道徳、さらには知識、遊び、芸術などが、その人が生まれる前からすでに取り囲んでいます。そのような部分が時間が経つにつれてたましいの中に入り、相互作用を起こしながらその人を形成していきます。このような人間形成の過程を、「社会化」(socialization)と言います。何らかの理由で孤立して育った子どもは、この社会化の過程を経ていないため、動物のようになるのです。 人間のたましいは「単独」ですが、他の人間がいなければ真の人間にはなれません。他者との関係がなければ、真の人生を歩む存在になれません。そのためアリストテレスは、人間を「ポリス的動物」(politiko.n zw/|on, ポリティコン ゾーオン)と表現しました。これは、共同体を構成する存在という意味です。正確な観察です。しかし、人間は動物ではなく「社会的たましい」です。神が人間をそのように造られたのです。
人間の社会性、神のかたち 「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(創 1:26~27)。 神は、ご自分を一人称複数である「われわれ」と表現し、また単数である「ご自身」とも言っている点に注目する必要があります。一部の旧約学者は、キリスト教の中心教義である「三位一体」を、創世記の最初の章に代入することを嫌い、さまざまな説を提示しています。しかし、この個所の神の複数性と単数性の共存は、新約で明らかになる「三位一体」教義のように、人間の思考と数字論理では説明できない神秘です。明らかなことは、神の本質に「われわれ」と表現される関係が内在するということです。 新約になるとさらに明らかに理解できる御父、御子、御霊の神の存在は、三位一体で「社会的」です。神は唯一の方ですが(申 6:4、エペ 4:6)、三つの神格で存在されます。これが私たちの神の実体です。神は愛です(Ⅰヨハ 4:8)。その愛は三位一体の神の内的関係です(ヨハ 17:21~22)。神は関係の形で存在される社会的神格です。神は社会的です。 社会的存在である神は、ご自身のかたちとして人間を造られました。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(創 1:27)。複数で表現された神が、人を「男」と「女」の関係なしには意味を持てない社会的存在として創造されたのです。人間は複数に造られました。神は祝福を2人のうちのひとりに、あるいは、各自に与えられたのではありません。「彼ら」(創 1:28)に与えられました。彼らは同じ命令を受けたのです。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」(創 1:28)。人間は創造されたときから他の人とともに生き、ともに働く存在なのです。 人がひとりでいるのは、神の目にも良くないことでした。「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう』」(創 2:18)。創造の段階ごとにくり返される「良しとされた」と語られた神が(創 1:4, 10, 12, 18, 21, 25, 31)、初めて「良くない」と言われたのは、ひとりでいる人間の姿でした。社会的たましいがひとりでいることは、社会的な神の観点からは良くないことでした。 もちろんこれは、男女関係だけに適用されることではありません。社会的存在である神のかたちとして造られた人間も、創造された時から社会的存在である神のかたちである「社会性」に入っているのです。そのため、人がひとりでいることは異常なことなのです。ひとりでいることは間違ったことなのです。 結婚していない独身の人生が間違っていると言っているのではありません。イエスやパウロのような人にとっては、独身は働きのための賜物です(マタ 19:12、Ⅰコリ 7:7)。独身でもいつもほかの人と一緒に生きる人がいる一方で、結婚をしていても、ひとりで生きている人が少なくありません。 男女関係について言っているのではありません。他人のことは全く気にせず、自分のためだけに生きたり、疎外されてひとりで生きることは、創造秩序にかなっていないという意味です。「ひとりぼっち」で生きることは、神がご計画された御心ではありません。「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ」(伝 4:9~10)。
社会性の本質、愛! 人間は社会的に創造されたたましいです。関係があるから人間であり、関係があるのが人生です。では、神が期待される人間関係とは何でしょうか。火を見るよりも明らかです。争いや競争ではなく、愛です。愛は神が創造された人間の社会性の本質だからです。 神が与えられた第一の戒めは、神を愛することであり、第二の戒めは、隣人を自分のように愛することです(マタ 22:37~40)。隣人愛は第二の戒めではありますが、それはイエスが大切な戒めは何かという質問に対して答えられたため、第一の戒めと切り離すことはできません。そのため“ドューテラ デ ホモイア”(deute,ra de. o`moi,a、「第二も異なることなく同じように」を意味する。新改訳では、「第二の戒めも、それと同じようにたいせつです」と翻訳されている)と語られ、隣人愛について語られました。第二のない第一はないという意味での第二です。人の人生における愛は、ほかの人を愛すること、つまり、隣人愛です。人間は社会的たましいであるため、愛し愛されるときに真の人間になるのです。 神は三つの神格が一つであるため愛であるように、神のかたちに造られた社会的たましいである私たちのための、イエスの切実な祈りの課題は、「愛による一致」です。「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです」(ヨハ 17:21~22)。愛である神の「愛の社会性」が、私たちにも同じように成就されることを願う祈りです。 「社会的たましいの人生は、ただ愛である」というみことばです。ですから、人生は愛すれば成功なのです。お金をたくさん稼げば成功なのではありません。イエスには所有物がありませんでした。高い地位に上ることが成功なのではありません。イエスには枕する所もありませんでした。良い職業があれば成功なのではありません。イエスは人生の最後の3年間、職業がありませんでした。有名になることが成功なのでは決してありません。イエスは人々にあざけられ、はずかしめられました。長生きすることが成功なのではありません。イエスはたった33年だけ生きられ、十字架で死なれました。人生は、愛すれば成功なのです。 愛が人間を人間にします。家庭でも職場でも、愛を求めてください。人間関係で失敗し、“敵”ができても、その人を愛することが、正しい人生です。イエスは、愛に失敗したところに来てくださり、愛を確認させてくださいました。十字架で死んでくださることにより、愛が何であるかを示してくださいました。私たちを愛によって回復するためです。キリストのからだである教会に属し、互いに愛し合いながら世に愛を伝えていきましょう。
人間のたましいは「単独」ですが、 他の人間がいなければ真の人間にはなれず 他者との関係がなければ真の人生はありません。
神が創造された人間の社会性の本質は愛です。 愛は人生であり、人生は愛です。 愛すれば成功なのです。
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