「私のうちにおられるイエス様とともに歩む訓練」を 牧会の中心価値とするユ・ギソン牧師(良い羊飼い教会 主任)。 24時間主を見上げるために、毎日「霊性日記」を書く彼にとって、 QTはどのような意味を持っているのでしょうか。
QTで劣等感と恐れから抜け出す ちょうど20歳になったばかりの神学生の頃、ソウルのある教会で教会学校に仕えていました。釜山出身なのでなまりがあり、私が説教するたびに子どもたちが笑ってからかいました。1年間努力してなまりを直しましたが、私の中から劣等感と恐れは消えませんでした。「私には説教の才能がないんだ。私が説教すれば、人々からあざけられる」という思いが、いつもつきまといました。 ある日、コリント人への手紙第一1章27~29節からQTをしたとき、「神様は強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたというみことばを受け入れよう」と適用しようとしましたが、自分の弱さに対する恐れが大きく、このみことばを受け入れることができませんでした。みことばと戦いはじめて3日目、主は「これは、信じるか信じないかの問題だ」と悟らせてくださいました。私は、「このみことばを信じます!」と告白しました。すると、私の肩にあった劣等感と恐れのくびきが折れるのを感じました。そして、それからは自由な心で説教することができました。みことばを私の人生に適用すれば、みことばが私の人生を変えるのです。 熱心にみことばを聞き、読む信徒の多くが、それらを自分の生活に適用できないでいます。自分の力でしようとして、だめならあきらめるのです。みことばを実践に移す力は主から来ます。ですから、私たちは主を見上げなければなりません。主とともに歩むなら、みことばに聞き従うことができるようになります。
主と親密に交わるためのツール 現代の信徒の問題は、イエス様については多くを知っていながらも、イエス様と親密ではないことです。QTはその壁を崩すのに役立ちます。信仰生活とは、私たちの信じるイエス様と24時間ともに過ごすことです。家族と一つ屋根の下に住むのと同じです。いつも一緒にいますが、夫が妻に「お茶でも一杯飲みながら話をしよう」と言う時があります。QTはそのようなものです。みことばをもって、主と一対一でデートするのです。QTは、目に見えない主が私とともにおられることを確信させてくれます。 私は、QTを宿題のように負担に思っている信徒に、「主が私たちとともにおられ、語られます。その主を知りたくないですか」と、主への渇きに気づかせ、動機を与えます。みことばを読んで黙想し、教訓を探し、適用するQTのプロセスをやり抜く信徒もいますが、そうでない信徒はQTを分かち合うことに苦しみます。それで「霊性日記」を書くことを勧めます。QTしたことを含め、一日の中でどれほど主のことを考えたか点検する日記を毎日書いていると、QTが主を知る近道であることがわかるようになります。 私は毎朝目を覚ますと、まず『リビングライフ』のきょうのQT個所を読みます。そして、早天祈祷会に出て、副牧師たちの説教を通して聞かせてくださる神のことばを聞き、祈ります。それから、朝食をとるまでの最も余裕のある時間に、もう一度『リビングライフ』を開き、「主がきょう私に語られることがある」と信じて聖書個所を読み、黙想します。それから、QTの内容をパソコンの「霊性日記」に残し、それを教会のリーダーたちと分かち合います。 私にとってQTは、神の御声を聞く重要なツールです。説教を準備するときも、まずそのみことばをもってQTをしてからテーマを考え、メッセージを整理します。説教者が神のことばによって自分の人生がどのように映し出されたかを告白するとき、信徒もそのみことばを自分のものとし、適用することができるからです。 線路が電車を横道にそれないように導くように、QTは、私たちが神秘主義に陥らず、聖書に基づいて主と親密に交われるように導くすばらしいツールです。
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