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マタイの福音書の恵み79
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[マタイの福音書 13章44節] 畑に隠された宝を捜せ |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、 それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタ 13:44)。
きょうのみことばは、天の御国に対してイエス様が語られた5つ目のたとえです。イエス様は「私たちは、天の御国をどのように手に入れることができるのか。御国は私たちにどのように臨むのか」という問いに対する答えを与えてくださいます。 きょうのたとえの意味を理解するためには、2千年前の当時の背景を知らなければなりません。当時は、財宝を管理する方法が今とは違っていて、銀行や金庫がないので、壷に入れて地に埋めておきました。戦争や動乱が起こることを考慮すると、それが財宝を保管する最も安全な方法でした。マタイの福音書25章のタラントのたとえで、1タラントを預かった人がそれを地の中に隠しておいたと言いましたが、これはきちんと保管しようとしてのことだったのです。 問題は、戦争や動乱が起きた場合です。主人が死ぬこともあれば、住んでいた地域から追放されることもあります。そうなれば、だれも財宝のある場所がわからず、財宝が埋まったままになります。また、地に宝を埋めておいた主人が、妻や子どもにも教えずに急死してしまい、その財宝は永遠に地に埋まったままということもあります。そのようなことが、当時はよくあったといいます。 きょうのみことばに戻りましょう。百年が過ぎ、2百年、3百年が過ぎると、土地の持ち主は何度も変わります。そんなある日、土地を耕していた農夫の鍬に何かが当たり、掘り返してみると、宝が出てきました。当時の慣例によれば、持ち主のいない財宝は、それを見つけた者が持ち主となりました。もし、自分の土地ではなく、人の土地を借りて農作業をする場合、宝が見つかれば、その土地の持ち主が半分取り、見つけた人が残り半分を取ることになっていました。 しかし、この農夫には土地の持ち主と分配する考えがありませんでした。それは、決して罪となったり、良心の呵責を覚えることではありません。見つけた人のものだからです。それで、この人はその宝を地にそのまま隠しておいて、帰って財産を全部売り払い、その畑を買ったというのが聖書の内容です。
隠された天の御国 このたとえは、天の御国をどのように手に入れるかについて語っています。「天の御国は、畑に隠された宝のようだ」とは、天の御国を見つけられない人もいる、ということです。聖日、同じように教会に行って礼拝をささげ、同じ時間に、同じ場所で同じみことばを聞きますが、ある人はみことばが蜜のように甘く、感激しますが、ある人には子守唄のように聞こえます。このように、ある人には天の御国が全く感じられず、理解もできず、触れることもできないという意味です。そのような人には、天の御国は隠されているのです。 イエス様は、私たちのために十字架で死なれて3日後によみがえり、今、聖霊を通して私たちとともにおられます。しかし、それが全く感じられないなら、隠された宝のようなものです。そんな人は、すべてのことに意味が感じられません。暗やみしかないのです。光であられ、いのちであられるイエス様の良い知らせがあるのに、それとは全く関係なく生きている人々がこの世にはたくさんいます。かつて、私たちもそのような人の中にいました。 ところが、ある日偶然、隠された宝を農夫が見つけました。彼は、宝を掘り出すために、いくつもの山をさまよい歩いた人ではありません。いつも同じようにくり返される日常生活の中で農作業をしていたところ、予想もしていないときに宝が鍬の先に当たったのです。このように、天の御国をある日偶然見つけることは、天の御国に接近する方法の一つです。
神のご計画で見いだした天の宝 私たちは、自分が主を受け入れたことを偶然であるかのように考えますが、神様に偶然はありません。2千年もの間待ってこられた主の摂理なのです。私たちが偶然見つけたように感じたとしても、その背後では、神様が長い間準備し、待っておられたのです。「あなたがたがわたしを愛さなかった時にも、わたしはあなたがたを愛し、あなたがわたしを捜さなかった時にも、わたしはあなたを捜し、あなたがたがわたしを知らなかった時にも、わたしはすでに準備していた」と言われる、主の御手によるのです。 偶然、ある女性がイエス様を信じる家庭の男性を好きになり、結婚しました。それがすばらしい祝福の機会になるということを、だれが知っていたでしょうか。その家に入り、仕方なく教会について行き、礼拝をささげ、バプテスマを受けました。 また、ある人の就職先の社長がイエス様を信じる人で、月曜日ごとに職場で礼拝をささげるため、仕方なく参加しました。それがその人に天の御国を発見させるきっかけになるということを、だれが知っていたでしょうか。それが一瞬にしてその人の人生を変えたのです。彼にとっては偶然でしたが、神様にとっては計画であり、備えであり、愛の摂理でした。 このように、天の御国は、私が捜して出会うのではなく、ある時、与えられるのです。私は意味もなく生きていましたが、神様は私を意味をもって触れてくださり、私には偶然でしたが、神様には必然でした。それで主に出会ったのです。なんとすばらしい祝福でしょうか。
キリストを見いだした人 宝を見つけた農夫は、それをそのまま隠しておき、喜んで帰っていきました。人の土地を借りて農作業をする身の上でしたが、とてつもない財宝を見つけたのです。その瞬間は借金だらけでも、恐くありません。無視し、あざける人たちも恐くありません。彼は財宝を手に入れたからです。天の御国を見いだした人は、そのような人です。 隠された宝を見つけた農夫は、その翌日、自分の持ち物を全部売り払って畑を買いました。イエス・キリストを見いだした人、天の御国を見いだした人は、世のものに関心がなくなります。それまでどんなに大切にし、愛着をもっていたものでも捨てはじめます。この農夫もその日、自分の全財産をためらうことなく売り払いました。 私たちは、十字架のほかに誇るものがない者たちです。キリストを知っていること以外には、すべてのものがちりあくたと思うようになるのです。永遠の価値のために、相対的な価値を捨てるようにならなければなりません。今や、手に入れなければならない理由もなく、惜しむべき理由もありません。天の御国を見いだした人にとっては、犠牲という代価を払うのは当然のことなのです。無理に犠牲を払うのではないのです。なぜ犠牲を払うのが難しいのかというと、宝を見いだしていないからです。地上のものよりも偉大な方に出会った経験がないからです。 宝を見つけた人が財産をすべて売り払った理由は、畑の中にある宝のためですが、宝だけでなく、畑ごと買わなければなりません。私たちはここで、イエス・キリストのために、不必要なものまで甘受しなければならないということを学ばされます。 天の御国を所有するためには、不必要な人間関係の中に入らなければならないこともあります。教会の中にも組織がいろいろありますが、そのグループに属さなければなりません。それらが「畑」なのです。自分が願うことだけをしていてはなりません。宝を得るためには、畑も買わなければならないのです。 皆さんは天の御国を見いだしましたか。イエス・キリストを見いだしましたか。感激して、主のためにすべてを手放したことありますか。私たちは、しばらくの間世で生きて、いつか死にます。その後には、私たちには永遠の世界が待っています。世はつかの間です。どうして私たちは、なくなるもの、朽ちるもののために、そんなに熱心に生きるのでしょうか。永遠の価値のために生き、犠牲をも喜んで払う、賢い決断をしなければなりません。
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