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マタイの福音書の恵み74
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[ マタイの福音書 13章3~18節 ] 重要なのは種ではなく地です |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 …別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、 あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい」(マタ 13:3~8)。
天の御国は、私たちが想像すらできなかった神様のいのちと神秘、祝福を経験し、味わうことです。ですから、天の御国は場所を越え、私たちが概念として考えるものよりも大きく高いものです。肉のからだを持つ私たちは、これをすべて理解することはできません。それでイエス様は、種を蒔く人のたとえを語り、それを解釈してくださいました。 種を蒔く人が種を蒔いた地は、4種類ありました。一つ目は道ばたです。イエス様はこれについて、「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます」(マタ 13:19)と解釈されました。このたとえを誤解すると、種を蒔く人の手落ちのように考えやすいですが、種を蒔く人は、同じように蒔いたのです。すなわち「道ばたにまかれる」とは、同じ条件、環境、場所で神様のことばを聞いたのに、聞いても拒み、そのみことばに対して無関心で、悟ることができない状態の人を意味します。 教会にも、説教が始まると居眠りしたり、「あの牧師は話すのが上手だな」などと考えるだけで、みことばと自分を結びつけようとしない人がいます。これが道ばたに蒔かれた種のような人です。このような人は、天の御国のことがわからず、神様のこともわかりません。なぜなら、みことばがその人の中に入っていかないからです。 このような人は、どうしたらよいでしょうか。どんなに説教をし、聖書を教え、祈ってあげても、道ばたのように心が堅く固まっている人は、情け容赦なく叩き、崩さなければなりません。そうしなければ、その強情で高慢な心を砕くことはできません。 では、心があまりにもかたくなで、みことばを道ばたにそのまま放っておくと、どうなりますか。イエス様は、鳥が来て食べてしまうと言われました(マタ 13:4)。イエス様はこの鳥を「悪い者」と説明されました。サタンです。みことばが私に来ましたが、私がみことばを理解し、悟り、謙遜に受け入れて、みことばが心に根を張らなければ、鳥が来て食べてしまうというのです。これを別の観点から解釈するなら、急を要するということを表しています。 「きょう大丈夫だから、あすも平気だろう。あと1年は生きられるだろう」というのは、危険な考えです。私たちは、時間の緊急性を悟らなければなりません。みことばを聞いてすぐに悟り、みことばが心の中に入ってくるようにしなければなりません。でなければ、天の御国を感じることも、悟ることもできず、御国を自分のものにすることもできません。 次に、岩地に落ちた場合を見てみましょう。「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」(マタ 13:20~21)。 この人は、天の御国のみことばを受け入れはします。「道ばた」のようにかたくなではありませんが、心は岩地のようなので、種が根を張ることができません。これは、信仰の基礎が弱い人、信仰の根がない人を意味します。聖書によれば、このような人は簡単に恵みを受け、すぐに福音を受け入れます。しかし、簡単に挫折し、すぐにあきらめてしまいます。 このような人の信仰は薄く、感情的です。きょうは恵みを受けても、あすは全く別人のように疑い、信仰の浮き沈みが大きい人です。これは、みことばに根ざしていないために現れる現象です。そんな人は、イエス様を信じ、みことばから恵みを受けても、困難や迫害に襲われるとすぐに信仰を捨ててしまいます。このよな人は天の御国を全く経験できず、神様のことばの深みに到達できない人です。 3つ目のたとえを見てみましょう。「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタ 13:22)。いばらの中に落ちた種のような人も、同じように天の御国のみことばを聞きました。地も良く、根もよく張り、いざ芽を出し、茎を伸ばそうとするのですが、問題は威勢のよいいばらの中に閉じ込められてしまうということです。イエス様はこのいばらを、世の不安や心配だと解釈されました。この世には、心配事のない人はいません。心配事がなくなれば、かえって不安になります。イエス様は「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」(マタ 6:27)と言われました。しかし、人間はいつも悩み、心配しながら生きます。 また、いばらのもう一つの意味は誘惑です。イエス様を信じようとしても、富の惑わしが自分の信仰の上にいばらのように覆います。そして、成長しようとしては挫折するのを繰り返し、結局実を結ぶことができません。 このような人は、子どもの頃からイエス様を信じて育った人に多くいます。イエス様を信じる親のもとで育ち、霊的に生まれ変わることができず、いつもみことばの栄養失調の中で信仰の貧困と貧血にあえいでいるのです。そのような人は、悩みや心配、誘惑のいばらに縛られ、どうすることもできません。これは、知らないからではなく、知っていてもできないのです。このような人は、真の御国を経験することも、見ることもできません。 4つ目に、真に天の御国を味わい、御国を所有する人をイエス様は紹介しておられます。「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」(マタ 13:23)。この場合は、よく整えられた肥沃な地に種が蒔かれ、よく成長することを意味します。天の御国のみことばを聞き、子どものように喜び、吸収し、よく悟って自分のものにする人です。 この人は、特別な活動をしたわけではなく、ただみことばをよく受け入れただけですが、この人に静かな奇蹟が起こり始めます。みことばがその人のうちに浸透し始めるとき、天の御国の力、喜び、すべてのものが、その人のうちで働き始めます。あれほど憎んでいた人への憎しみが消え、赦せなかった人を赦せるようになります。周りの人のせいにしていた人が、自分の罪だと言い始めます。その人は、価値観や考え方が変わったのを感じます。心が貧しくなり、柔和で謙遜になり、神様のことを考えるようになり、自分の人生が一つ一つ整理されていくのを感じます。これが変化です。これがまさに、百倍、六十倍、三十倍の実を結んだという意味です。みことばが心を刺し、私を粉々に砕いて変えてしまうのを、自分も知らないうちに感じるようになるのです。みことばが自分のうちに深く入ってくるようになると、このような変化が起こり始めます。この人は、御国のようでない状況で、御国を作る人です。 私たちは、天の御国のたとえから、3つのことがわかります。第一に、天の御国のみことばは、すべての人に同じように蒔かれたということです。同じように蒔かれたのに、それぞれ別の反応をしたのです。第二に、みことばが宣言されたからといって、すべての人がみな謙遜に受け入れるわけではないということです。それぞれの心の状態によって、みことばを受け止める態度が違うのです。第三に、みことばを正しく悟るとき、はじめて天の御国への目が開け、天の御国の奇蹟と力を体験するようになるということです。みことばは、イエス・キリストを意味します。ですから、イエス様を受け入れ、この方を深く知るようになるとき、私たちは、御国の主人であられるイエス様とともに天の御国を体験するようになるのです。 イエス様とともにいれば、地獄も天国に変わります。失敗も挫折も、勝利と成功に変わります。皆さんが、永遠なるいのちの水とみことばであられるイエス・キリストに支配され、多くの実を結びますよう願います。
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