パク・ジョンギル ソウル・オンヌリ教会 ソビンゴ担当牧師
信じることは、信仰の始まりです。信仰は、望みえないものを望み、目に見えないものを見ます。人は、信頼の対象にはなれても、信仰の対象にはなれません。神様だけが私たちの唯一の信仰の対象であり、礼拝の対象です。信仰は、自分の考えや経験に拠り頼むことではなく、神様のことばに拠り頼むことです。信仰は、神様のことばに信頼して従うとき、成長します。信仰はまた、救いの鍵です。信仰自体が救いではありませんが、救いにおいて信仰は欠かせないものです。私たちの不安や思い煩いを打ち崩し、あわれみと恵みと望みを与えてくれるものが信仰です。信仰によって人生を解釈するとき、驚くべき神様の御手を経験できます。信仰は、苦難の中でも勇気と忍耐をもって歩み続けることができる原動力になります。信仰は、聖徒が進むべき道の第一歩です。 イスラエルの聖地を訪問する巡礼者たちが必ず行きたがる所があります。それは、エルサレムとベツレヘムです。エルサレムは、神殿があった場所です。エルサレムが華やかで雄大な所であるのに対し、ベツレヘムは小さく、こぢんまりとした都市です。ナオミとダビデ王の故郷であり、サムエルがダビデに油をそそいだ所でもあります。そこでイエス様がお生まれになり、神様の救いが始まりました。信仰が、聖徒の行くべき道の第一歩であるように、ベツレヘムは、イエス様の始まりの最初の場所です。 預言者ミカは、「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さなものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」(ミカ 5:2)と預言し、この預言は、イエス様を通して成就されました。ベツレヘムは神様の預言が成就された都市です。 それで、第一に、ベツレヘムへと向かう道は、信仰の道です。神様を信じる信仰は、神様のことばを確信することです。信仰は、預言の成就を信じることです。信仰は、みことばを聞き、それに従うことです。野原で羊の群れを守っていた羊飼いたちは、御使いが現れてダビデの町に救い主がお生まれになったというメッセージを聞きました。そして、彼らはそのことばを信じてベツレヘムに行き、飼葉おけに眠っている幼子イエスを見てひれ伏します。みことばどおりに従うとき、信仰が生じます。御使いのことばを信じてベツレヘムに行った羊飼いたちは、救い主の誕生と救いのみわざを目にしました。 第二に、ベツレヘムへと向かう道は、へりくだる道です。信仰は、自分自身を低くすることです。自身の考えや経験を下ろして、神様のことばと導きに従うことです。ベツレヘムは、実に取るに足りない都市です。イエス様は貧しいヨセフとマリヤの家庭にお生まれになりました。力もなく、貧しかったので、家畜小屋でお生まれになりました。しかし、ベツレヘムは、預言者ミカの預言のように、イエス様によって有名になり、重要な都市になりました。なぜイエス様は、このような小さな都市、むさ苦しい所でお生まれになったのでしょうか。それは、おそらく、最も低くなることによって、すべての人を抱かれるためです。川の水がすべて海に向かって流れるのは、海が最も低いからです。それと同様に、イエス様も低くなってくださったのです。取るに足りない私たちのために低くなられたイエス様は、私たちの人生に意味を与え、尊い価値を持たせてくださいました。 第三に、ベツレヘムへと向かう道は、従順の道です。信仰は従順を通して完成されます。イエス様は、神様の御心に従ってこの地に、人となって来られました。羊飼いたちは御使いのことばに従い、マリヤは羊飼いのことばを心に留めました。神様のことばに対する従順は、信仰を全きものにします。ベツレヘムへの道は簡単ではありませんが、その道が救いの道であるように、従順は簡単ではありませんが、従順を通して神のみわざと奇蹟が起こります。 信じることは、信仰の始まりです。信仰は、信じることから始まり、信じることによって完成します。聖徒が向かうべき道の第一歩は信じることです。そして、その道はベツレヘムへと向かう道でもあります。ベツレヘムは信仰の道、へりくだる道、従順の道です。小さな町ベツレヘムが、イエス様によって重要で意味のある場所なったように、弱く足りない私たちも、イエス様によって神様の子となり、約束の子となりました。皆さんがベツレヘムへと向かう信仰の道で勝利されますよう祈ります!
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