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マタイの福音書の恵み68
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目標を神の喜びに 定めなさい |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。 『これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。 わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、 大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、 公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける』」(マタ 12:17~21)。
イエスは、病にかかった人をいやされた後、ご自分のことを人々に知られないようにされました。マタイの福音書12章17~21節を見ると、そのようにされた決定的な理由が、イザヤの預言が成就されるためであったことがわかります。イザヤ書42章1~4節のみことばが、そのままイエスに適用されたのです。イザヤが預言したメシヤの特徴は、次の三つに現れています。 第一に、メシヤとは、神が選ばれた神のしもべであり、神が喜び、愛する者です。この「しもべ」という単語には独特な意味があって、下人や奴隷を意味するのではなく、信頼され、寵愛されている息子を意味します。それで旧約において、神はイスラエルを「わたしのしもべ」と呼ばれたのです。ですから、メシヤとは、神が特別に愛し、信頼するしもべ、つまり息子を意味しているのです。 第二に、神がご自分の霊を置かれた人です。イザヤ書には「上から霊が私たちに注がれ」(32:15)とあります。メシヤは、聖霊を無限に受けた方でなければなりません。イエスは、人からではなく、聖霊によってお生まれになった方です。また、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったとき、天が開き、聖霊が鳩のようにイエスの上に下りました。イエスは神の御霊を限りなく受けられたのです。 聖霊がイエスに限りなく注がれたということは、何を意味するでしょうか。それは、イエスがメシヤの務めを遂行するのに必要な、すべての力と資格が与えられたことを意味します。ですから、イエスは、足のなえた者をいやし、死者を生き返らせ、自然を治め、悪霊を追い出されるなど、超自然的な力を用いることができました。これは、すべてメシヤの力であり、聖霊のみわざです。イザヤ書に「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」(11:2)とあります。私たちはみな、聖霊に満たされなければなりません。聖霊を受ければ、単に異言を語るだけでなく、知恵と悟りと能力と信仰が与えられ、驚くべきわざを行うようになります。 第三に、神の福音を異邦人に宣べ伝える人です。「彼は異邦人に公義を宣べる」(マタ 12:18)とあります。ここで「公義」という単語は、私たちがよく使う概念ではありません。これを「福音」に置き換えると、もっとわかりやすいでしょう。メシヤは福音を異邦人に知らせると言っているのです。メシヤはユダヤ人のためだけのメシヤではなく、全人類のためのメシヤでなければなりません。 このみことばは、使徒の働き1章8節のみことばと結びつきます。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」そしてこれは、「わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる」(マタ 12:18)というみことばと結びつきます。 聖霊が来られる最も重要な目的、メシヤが来られた最も重要な目的は、異邦人に救いを与えることです。病をいやし、悪霊を追い出すことも重要ですが、それはメシヤの力を表すほんの一部分にすぎません。死人が生き返ることよりもっと重要なことは、私がイエスを信じ、私の周りの人の目が福音に開かれることです。それこそ奇蹟なのです。メシヤの働きは、地の果てまで神の公義を実現させ、福音を宣べ伝えることなのです。 では次に、メシヤの態度について調べてみましょう。第一に、「争うこともなく」(19節)とあるように、神が選ばれたしもべ、神が喜ばれ、愛されるしもべ、聖霊を無限に受けられた方、異邦人に福音を宣べ伝えるメシヤの態度は、争わないということです。メシヤは絶対に争ったり、けんかしたりされません。 イエスはメシヤの使命を成し遂げるために、争われませんでした。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(イザ 53:3)。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザ 53:7)。今の世には、ある程度の正義はありますが、正義を成し遂げることができる完全な正義はありません。殉教者がいないのです。ほふり場に引かれて行く羊のような殉教者がいないのです。これが問題です。どんなに声を張り上げ、争っても正義は実現しません。なぜなら、正義が実現する方法は、争いではないからです。 第二に、メシヤの態度は「叫ぶことがない」ということです。メシヤは謙遜と柔和と自己否定の方でした。彼は一度も叫ばれませんでした。ピラトの不義の審判でも、死刑宣告を受けるときも、イエスは静かに沈黙し、不義な裁判をそのまま受け入れられました。 最近はだれでも自分を宣伝し、誇り、主張して叫びます。裁判の過程で人々は叫び、乱暴を働きます。法が間違っていると言って、すべてを根本的に否定し、叫びます。イエスとはあまりにも対照的な姿です。クリスチャンならば、静かに負け、十字架を負い、義を成し遂げるべきです。「大路でその声を聞く者もない」(マタ 12:19)とは、イエスの声が聞こえなかったということです。メシヤは自己主張をしたり、争ったり、人気を得ようとしたり、宣伝しようとしたりしません。しかし、最近の私たちの社会には、過激な争いの声がたくさん聞こえます。テレビを見ても、商品を売るための宣伝がどれほど多いでしょうか。教会もそのような宣伝や自己主張のような方法を使っていることに問題があります。 第三に、メシヤの態度はあわれみといつくしみです。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは」(マタ 12:20)。これがイエスの心です。「いたんだ葦」とは何でしょうか。「人間は考える葦である」ということばがあります。しかし、実際に人間の本質は、考える葦ではなく、いたんだ葦です。古代には、羊の群れを導くために、葦で笛を作って吹きました。葦で作った笛を吹けば、羊の群れが集まり、散りました。ところが、その葦が折れれば、笛を作ることができません。いたんだ葦とは、笛を作ることができない葦、使い物にならない葦を意味します。心が傷つき、ぼろぼろになったたましい、もはや夢も幸せも理想も歌えない病んだたましい、息も絶え絶えにただ死を待っている人生、もはや望みのない状態を、いたんだ葦で表現しているのです。これが人間の実存です。「くすぶる燈心」とは何でしょうか。油がある時は燈心がよく燃え、暗やみを追い払います。しかし、油が尽きれば、燈心が焦げてすすが出はじめ、ついに燃えるものがなくなります。燈心が真っ黒に焦げ、燃え尽きてしまうと、油を加えても火がつかず、新しい芯に換えるしかありません。再生できない燈心、これがまさに人間の実存なのです。 すでに折れた人生、再生できない燃え尽きた燈心のような人生を、イエスは呼び、洗って新しくし、救ってくださいました。イエスは、罪とサタンと世に抑えつけられて奴隷となっている私たちの悲惨な状態をご存じで、涙を流し、血を流し、私たちを愛し、赦し、理解してくださいました。このメシヤは、可能性のない私たちを可能性のある者としてくださり、新しく生まれ変わらせてくださいました。 「公義を勝利に導くまでは」(マタ 12:20)、つまり、福音が勝利する時まで、主は私たちをお見捨てになりません。私たちクリスチャンは、メシヤの態度、メシヤの方法にならって、人生の目標を神の喜びに定め、日々歩んでいきましょう。
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