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キリストに立ち返る日本を夢見て
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神がともにおられる教会の秘訣、QT |
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テジョン・オンヌリ教会 主任牧師 パク・テヨン
養育の始まり、QT 牧会の核心は養育です。その養育の目標は、イエス様の教えを伝え、それに従って生きることです。それは主が私たちに願われた内容です。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのこと守るように、彼らを教えなさい」(マタ 28:19~20)。教会の使命は、福音を伝え、バプテスマを授け、イエス様のすべての教えを教えて守るようにさせることです。教会は外的な大小が問題なのではなく、その使命に従って牧会しているかどうかが重要なのです。 それを守るためには、牧会者がまず主の教えに従って生きなければなりません。自らの内的な歩みの中で、家庭で、地域社会でみことばに従い、実を結ばなければなりません。イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタ 16:24)と言われました。牧会者も聖徒も、主にならって生きなければならないのです。 真のリバイバルは、みことばの養育から始まります。教会の世俗化の原因の大部分は、みことばの枯渇によるからです。この養育の出発点は、QTです。QTとは、神様との人格的な出会いの場です。私たちは、神のことばを黙想し、それを適用する中で、神様に出会うことができるのです。 この内容は、ガラテヤ人への手紙2章20節で説明されています。 私はキリストとともに十字架につけられました。QTは、自分がどんな存在であるかを見いだす時間です。つまり、自分はキリストとともに十字架につけられた罪人であることに気づくのです。そして私たちは、自分は罪人なので、死ぬしかない存在だと告白し、イエス様に罪の赦しを求める貧しい心が与えられるのです。イエス様も「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタ 5:3)と言われました。そこに、イエス様のいのちが入ってくるのです。 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。QTを通して、イエス様が死なれることにより、私の死が解決されたという告白が導き出されます。そして、私の欲望や本性、罪の根はみな死んだと宣言するようになるのです。キリストが私のうちに生きておられるという意味は、主の統治権を認め、喜んで従いながら生きるということです。十字架を通して神様と一つになり、従う人生の恵みが与えられるのです。 いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私たちの人生の目的はイエス・キリストであり、その愛を知ることです。イエス・キリストは、その愛のゆえに神様と同じ権威をすべて捨て、人間と同じようになり、しもべの姿で人間のもとに来てくださいました。愛するなら、自分の持っている権利も、いのちも差し出すことができます。私たちがその愛と出会うのがQTです。その中で主に出会うなら、私たちはみな、主の大きな愛に感動し、感謝の心で生きるようになるのです。使徒パウロの告白がそれを代弁しています。「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、…それらをちりあくたと思っています」(ピリ 3:8)。
QTの核心 QTには二つの柱があります。それは黙想と適用です。黙想は、記されたみことばを通して、生ける神様に出会うことであり、その目標は、イエス様に似ていくことです。つまり、主だったらどうされるかという祈りの中で、主に出会うことです。 黙想すると、神様との親密さという実が与えられます。主が語られ、私たちがそれを聞くことによりその親密さは深まります。そして、神様の御心を知り、次第に神様に似ていき、世に福音を伝える存在に変えられるのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。…それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハ 13:34~35)。 QTは二種類の質問によって深く黙想することができます。一つ目は、神様はどんな方か、二つ目は神様は私に何を語られ、何を成し遂げようとしておられるかです。 黙想の対象は、自分や自分の問題ではなく、イエス・キリストです。イエス様のうちに恵みと真理があります。イエス様を黙想して初めて、そのみことばが私のうちに生きるのです。 神様は、聖書の中で、ご自分を啓示しておられます。神の子どもたちは、神がご自分を説明される名とたとえを通して神様の品性に出会い、似ていくことができるのです。旧約を見ると、ご自分の名を教えておられます。たとえば、主、アドナイ・イルエ、アドナイ・シャロム、アドナイ・ニシなどです。また、新約では、イエス様がご自分のことを、生けるパン、ぶどうの木、道、真理、いのち、よみがえりにたとえておられます。 神様はご自分の子どもたちが、ご自分のことをよく知り、ご自分に似ることを願われました。「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」(レビ 11:45)。適用は、神様が願われるライフスタイルで生きていくことです。歴史の中で神様が働かれた目的に、私たちの考え方と行動の動機を合わせて生きることです。これは、自分の生き方の変化と成熟という実を結びます。自分の本性ではなく、神様の品性と御心に合わせて生きるよう、日々適用するのです。 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモ 3:16~17)。みことばを通して私たちは整えられ、良い働きができるようになります。それが適用の核心です。 これは、おもに私たちの本性を神様の品性に変えて、社会生活を生きていくことです。憤り、貪欲、性欲、恐れなどに満ちた心に、神様の栄光と知恵により、正しい判断の基準と目標が与えられ、新しい人生を始められるのです。そして、神様が願われるライフスタイル、つまり、考え方と世界観を持つようになるのです。それでQTは、霊的な黙想により、社会生活の中で適用の実を結ぶのです。つまり、夫婦関係の中で、職場の人間関係の中で、教会の人間関係の中でイエス様を現すようになるのです。
QT牧会の有益 QT牧会をするようになると、聖徒が健全になります。ふつう聖徒は、牧会者が熱心に準備した説教を聖日礼拝で聞いて一週間の生活をします。残りの6日間は、神様のことばや神様のことを考える時間はあまりありません。自分の考えや本性に従って生きてしまいがちです。しかし、QTを毎日する聖徒は、神様のことばを食べながら健全に生きていくことができます。自分の内面や家庭、社会生活に対する神様のご計画や御心を喜んで受け入れ、従うのです。 私は今の教会に仕え始めて12年になりますが、2年前からQT牧会を強調し始めました。神様はどんな方であり、神様がきょう私に何を語っておられるかに集中するよう強調しました。そして適用の現場は家庭からスタートするようにしました。 多くの人々の反応は、自分のことを黙想していた信仰と黙想が間違っていたことがわかったということです。そして、神様の御名と品性を自分の生き方に適用することに、熱心になりました。平日のQTの集いでも、自分の問題に焦点を置かず神様に焦点を合わせると、いやしと回復が与えられ、聖徒が変わり始めました。以前は、安楽で穏やかな環境が神様の恵みであると告白していた聖徒たちが、今では苦しい環境でも、神様の御心は何かを聞き、祈りながら待つ姿が見られるようになりました。 夫婦の関係が良くなかった方たちは、神の御前で祈り、互いに赦し合うようになりました。多くの家庭がみことばの中で回復しました。家長たちが毎日時間を決めてみことばを黙想し、神様の御前で自らを振り返るようになると、妻に対する言葉遣いが変わり、表情も変わりました。妻たちも夫を愛し、権威者として認めるようになりました。 また、病のいやしのために祈ってもかなえられなくて失望し、信仰が試される人もいましたが、QTを通して祈りが変わりました。「神様が私にこのような病を与えられたのは、どんな目的のためですか。」そして、主の自由を得て、神様に信頼して待つようになりました。 また、夫が事業による金銭的な問題で留置所に入れられた人がいました。事業もだめになり、夫を恨んでいましたが、その人もQTを通して変えられ、そのことを通して夫の信仰と家庭が神様の御前で新しく変えられ、神様の愛により一つになるようにと祈り始めました。 また、夫が救われていない婦人たちは、夫が救われず、信仰が試され、集まると夫の悪口を言い、やりきれない思いで、慰め合うだけの時間を持っていました。その集いがQTの集いに変わって祈り始め、夫に対して神様の心で愛するよう変えられました。その後、彼女たちは神様を愛するように夫を愛し始め、夫たちは妻の変わった姿を見て教会に出てくるようになり、今ではその集いの夫たちは全員出席しています。そして、そのうち一人は、この9月にバプテスマを受けました。 また、若者や小・中・高校生たちにも、QTを通して多くの変化が生じました。神様の御心を尊び、自分の進路や配偶者に対する基準を、神様の御心に合わせようとする姿が見られました。なんとすばらしいことでしょうか。 QTをすれば、私たちの生活の中に神様が現れてくださいます。争いや葛藤がなくなり、十字架により二つを一つにしてくださいます。また、QTをすると、祈るようになります。神様のことばをよく聞き、御心が成し遂げられるよう祈るのです。教会の主人は神様であり、教会はイエス様を愛する者の集まりです。それならば、私たちはみことばに立ち返らなければなりません。このみことばが人となって、この地に来られたことを覚えなければなりません。私たちのうちでみことばが語られ、みことばに治められるようにしなければなりません。 祈りは、みことばを受け入れた者たちが、御心が天で行われるように、地でも行われるようにすることです。神様が喜んでともにおられる教会の秘訣は、ここにあります。このようなQTの恵みが、日本のすべての教会に満ちあふれますよう祈ります。
パク・テヨン テジョン・オンヌリ教会 主任牧師 オンヌリ教会 養育本部長 ラブ・ソナタ継続養育プログラム「QTリーダー・アカデミー」講師
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