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キリストに立ち返る日本を夢見て
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ラブ・ソナタ京都で教えられたこと |
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活けるキリスト京都一麦桂教会 牧師 早川和生
2015年4月8、9日の両日にわたってラブ・ソナタ京都がびわ湖ホールにて行われました。今大会は、京都の教会が主催する集いとしては最大級の動員数であったことは感謝に堪えません。以前、京都の教会が主催した集会の最大は約千名でしたが、今回はその二倍以上でした。神様にその栄光をお返しすると共に、協力してくださった委員の皆様と協力教会に、心よりの感謝を申し上げます。 ここで、ラブ・ソナタ京都がスタートした経緯を簡単に申し上げます。2013年の春頃でしょうか。CGNTVの番組出演者に「ラブ・ソナタを京都で開催しませんか」とラブ・ソナタ日本本部からお誘いがありました。そのお誘いに従って、在日・京都教会に集まり、説明がなされました。DVDに収められたラブ・ソナタの映像はとても素晴らしいものでした。あまりにも素晴しかったので、こんな大きな集会を京都でできるのだろうかと思いました。その上、説明会に来られた牧師も多くはなく、この集いを開く資金も、大勢の人を集める人脈もなく、委員会を構成するノウハウも、運営の仕方も良くわかっていないと思い、京都ではこのような集会はとても無理だと思いました。 その一方で、京都のリバイバルを願う一人として、京都という名前の付いた集会を断ることはもったいないと考えました。そこにラブ・ソナタ日本本部の方々の祈りと信仰があったのでしょう。私の揺れ動く心に、霊的な後押しをしてくださいました。 ラブ・ソナタ京都の働きが始まり、委員長に私が選出されましたが、委員長として委員会を導く自信は全くありませんでした。しかし、祈りの中で神様からの使命だと信じさせていただきました。その時、私の中に与えられたのは、この宣教は人脈や能力ではなく、祈りの戦いだということです。大会準備期間中に与えられた御言葉ですが、ゼカリヤ書4章6節「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」という御言葉が励みとなりました。 毎朝の早天祈祷会や教会の祈祷会には、ラブ・ソナタ京都の祝福のための祈りに集中しました。祈っているうちに、大会のためだけでなく、京都の教会の祝福のために祈るようになり、京都の教会に新たな福音の風が吹くことを願うようになりました。一つの教会の成長ではなく、すべての教会が成長しなければ、リバイバルとは言えないと考えるようになったからです。その祈りの戦いは、自分が奉仕している京都一麦桂教会の厳しい現実に、幾度もくじかれそうになりました。私の奉仕教会は、祈っても祈っても宣教の壁が破れず、むしろ牧師として辛い試練が次々と起こり、ついにはリバイバルのために祈ることがバカバカしいと思うほどに落ち込みました。 それでもラブ・ソナタ京都の準備を推し進めなくてはなりませんでした。会場の選定に時間がかかったのに加えて、大会の日程の変更があり、しかも京都ではなく、滋賀県のびわ湖ホールに決まったことに対して、神様のご計画だと信じる心と、びわ湖ホールでは京都から多くの方が参加できるかどうかわからないという不安が生じました。それにもかかわらず今回のラブ・ソナタ京都が祝福されたのは、滋賀県の教会が協力してくださった結果です。なぜ、びわ湖ホールだったのかと当初はいぶかる思いはありましたが、このことで私の疑問は払拭されました。 会場であるびわ湖ホールはとても立派なホールだったので、京都委員会としてはかなり負担がありました。委員会の構成メンバーは十数名だけで、それに加えて京都委員会以外の協力教会には献金を求めませんでした。そこで数回の決起大会を開き、協力教会別連合決起祈祷会を月ごとに開き、その度に献金がささげられました。どこからこれだけの献金が与えられたのかと思うほど不思議に満たされ、支払期限内に全額支払うことができました。そのほかにも、幾度も追加の支払いがあり、不安がよぎりましたが、見事に満たされました。それは私の目には奇蹟のようでした。その陰には会計係と委員会のメンバーによる献身的な犠牲と多くの祈りがありました。 次の問題は、協力教会がどれだけ多く参加してくださるかということでした。強力な人脈があるわけもなく、飛び込みで手当たり次第にさまざまな教会を訪問しました。手応えが感じられない中で、協力教会数を100教会と決めました。知り合いの教会の多くは、協力教会として早くから参加してくださいましたが、私たちが協力教会にと願っていた教会には参加してもらえませんでした。京都では苦戦しましたが、滋賀や他府県から多くの協力教会として参加していただきました。招待券の発送の時点になっても約90教会ほどで、100教会に到達せず、不安が募りました。その時に助けとなったのはラブ・ソナタ本部から派遣された専門スタッフたちです。彼女たちの助言と働きによって勇気とさまざまな助けが与えられました。 委員会を開くごとに一曲賛美した後、議事に入り、最後に出席者全員が祈ることにしました。全員祈祷だけは委員長としてこだわりました。メンバーはとても優秀な牧師で、祈りの重要性はよく知っておられるからこそ、全員祈祷をお願いしたのです。 その祈りの恵みを感じたのは、準備のためにやるべきことを一生懸命やるだけでいいのだという、ある意味“開き直り”の思いが与えられたことです。現実は、大会に大勢の人たちが来るのか、すべての必要資金が満たされるのか、次々に不安が襲いました。その度に、その不安を吹き飛ばし、信仰を強めてくれたのは、委員会メンバーの祈りの輪と各自の早天祈祷会の祈りであり、月ごとに開かれた月別連合決起祈祷会、そして数回の決起大会でした。このように祈りを繰り返し重ねるうちに与えられたのは、神様は必ず答えてくださるという信仰でした。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブ 11:1)という御言葉を実感しました。祈りは“信仰の母”であり、神様の慰めであり、無から有を生じさせる不思議な力です。 ラブ・ソナタ京都が近づいてきても、不思議に焦りや不安はありませんでした。一日目の大会が始まり、朝早く、京都から通い慣れたびわ湖ホールへ行き、教会セミナー、リーダーシップフォーラム、ゴスペルナイトと、集会が祝福のうちに進みました。ゴスペルナイトの最後に、私が大会衆の中での説教をすることになっていました。こんな大きな会場でするのは初めてでしたが、とても落ち着いて語ることができました。これも祝福の経験でした。 大会二日目の早朝に朝餐会があり、リーダーシップフォーラムと同様、普段ならば決して会うことのない地位の高い方々とテーブルが一緒になり、とても不思議な思いが起こりました。私の奉仕教会は試練の只中にあり、教会は小さく、力もない教会の上に、何一つ誇れるところがない牧師なのに、委員長というだけでそのテーブルにいるのは、何か場違いな思いがしました。その一方で、私は神様のために働くひとりの働き人として、共通の立場にいるとの自覚もありました。その共通点こそ祈りです。祈りには何の差別も区別もありません。それを実感したのは二日目の奉仕者だけが集まる大会前の祈り会でした。大勢の韓国スタッフと日本スタッフが集まり、祈りが始まりました。どんな人たちが集まっているのか、わかりませんでしたが、一斉に祈り出した時、ペンテコステの日のごとく、心が燃やされ、一つとなる思いがしました。 ついに大会最後の夜となり、ラブ・ソナタが行われました。大勢の方が来られることを信じていましたが、まだ開場していない巨大なホールに座っていると、本当にこの大ホールに人が満たされるのかと不安が広がりました。思わず、「神様!」と祈り求めました。祈る途中、何度か振り返って見回しましたが、まだ半分も満たされていませんでした。さらに祈り、時間を忘れて祈っていると、周囲が騒がしくなり、目を上げると大ホールは満席となっていました。ホッとする思いと、新たな期待があふれてきました。素晴らしい音楽ゲスト、御言葉の説教を大いに楽しみ、恵まれました。そして、最後に舞台に上がり、委員長として祝祷をささげた後のことです。言い知れない圧倒する神様の愛の満たしを受けて、涙があふれました。この集会は、韓国の人たちと日本の人たちが、心を一つにして祈ってきた結果だと強く感じ、深い感謝と喜びに包まれました。 ここで改めて、「この大会後に京都の教会にリバイバルの風は吹いたのか」と振り返ってみました。委員会で奉仕してくださった多くの教会は、素晴らしい福音の風を感じられたのではないかと思っています。しかし、全体から見れば、京都は大きく変わることなく現状のままです。残念ながら京都の日本基督教団からは、わずかしか参加していただけず、京都福音牧師会からの参加者も願うほど多くはありませんでした。これが現実です。参加されなかったことには、さまざまな理由があったと思います。その良し悪しではなく、それを上回るリバイバルの風を吹かせることができなかったことが残念です。 何が足りなかったのでしょう。祈りでしょうか。では、祈りの時間を増やし、断食して祈りに集中すれば満たされるのでしょうか。そうとは限りません。使徒の働き1章4節から、リバイバルは神様の約束をいただくことから始まると教えられました。その約束を京都に、日本に与えられるには、祈りつつ神様の時を待つ以外にありません。リバイバルの風は吹き始めていますが、全体に風を感じるにはさらに時間がかかるでしょう。リバイバルは人の計画によるものではなく、深く祈る中で示される神様の啓示に従うことです。この服従こそ、今求められている姿勢ではないでしょうか。 「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」(ピリ 3:12)。
早川和生 1951年京都市生まれ。 洛陽工業高校を卒業後、しばらく自宅浪人を経て、母教会の献身候補生として奉仕に励む。 1981年、神の摂理によって関西聖書神学校へ入学。1985年、活けるキリスト京都一麦桂教会に奉職し、現在に至る。
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