チョ・ソクミン Ι エズラ聖書大学院大学校 新約学教授
ヨハネの福音書に登場する地名と場所は、イエスに関するさまざまな情報を提供するとともに、福音書全体の流れを理解する上で役に立ちます。
イエスの救いの働きを暗示する地名 第一に、ヨハネの福音書に出てくる地名は、イエスの救いの働きと密接な関わりがあります。中でも頻繁に出てくるのがエルサレムとガリラヤです。 エルサレムから遣わされた祭司やレビ人たちが、バプテスマのヨハネはだれであるかと質問しますが、これはイエスの存在意義を間接的に示す役割を果たします。イエスはエルサレムの宮でご自身が神殿であると語られ、それを成し遂げるためにエルサレムへ入られ、十字架につけられました。 ヨハネの福音書の著者は、ガリラヤについて言及し、カナ、ベツサイダ、ナザレ、テベリヤ、カペナウムなどの小さな地域について具体的に述べていますが、これはイエスの歩みが歴史的な事実であることを示そうとする意図があります。ガリラヤのナザレは、イエスがナザレ人であることを示し、神から遣わされ、奇蹟を行う最後の預言者(メシヤ)であることを暗示しています。ガリラヤとユダヤのエルサレムとの中間の地域であるサマリヤは、ヨハネの福音書のイエスが「世の救い主」であることを示す役割をしています。
イエスの存在意義を示す場所 第二に、ヨハネの福音書に出てくる場所は、イエスの存在意義と深い関わりがあります。エルサレムの宮、サマリヤのスカルの町にあるヤコブの井戸、エルサレムの羊の門の近くにあるベテスダという池、シロアムの池、エルサレムの神殿の中のソロモンの廊(10:23)、ラザロの墓、ケデロンの川筋の向こう側、アンナスの法廷、カヤパの法廷、ピラトの法廷、ゴルゴダ、園の新しい墓、そしてテベリヤの湖(6:1, 23;21:1)などが出てきます。 イエスはエルサレムの宮で、牛や羊や鳩を売る人たちや両替人たちを宮から追い出し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(2:16)と言われました。これは、神殿であられるイエスの存在意義を示すものです。イエスがエルサレムの神殿のソロモンの廊を歩かれたことも、神殿であられる主の存在意義を暗示しています。仮庵の祭りの時に、エルサレムの宮で人々に教えられたことも、メシヤである主の存在意義と関連しています。また、イエスはエルサレムの宮で人々に教えられる時、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と語られ、ご自身が世の光であることを示されました(8:12)。 サマリヤのスカルにあるヤコブの井戸は、世の救い主であるイエスの存在意義を認識させる歴史的な場所です(4:5~6)。エルサレムの羊の門の近くにあるベテスダの池で、38年間病気にかかっていた人を安息日にいやされた出来事は、イエスが神であることを示しています。また、イエスが安息日に、盲人にシロアム(遣わされた者の意)の池に行って洗うように命じていやされたことは、イエスが神から遣わされた方であることを暗示しています(9:7)。ラザロの墓の前に立たれてラザロをよみがえらせたことは、イエスが「いのちと復活の主」であることを示し、ケデロンの川筋の向こうからアンナスの法廷へ、カヤパの法廷からピラトの法廷へと移されたイエスの姿は、主が神の救いのみわざを成就する救い主であることを示しています。そして、ゴルゴダと園の新しい墓は、イエスの受難と死、復活を暗示し、テベリヤの湖畔は、イエスの復活が歴史的な事実であることを暗示しています。 このように、ヨハネの福音書に出てくる地名と場所は、イエスが神の御子であり、救いの働きを成就されるイエスの歩みをよく表しているのです。
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