チョ・ソクミン Ι エズラ聖書大学院大学校 新約学教授
ヨハネの福音書に出てくる祭りには、「過越の祭り、仮庵の祭り、宮きよめの祭り」があります。著者は、イエスの歩みを祭りと関連づけて詳しく記していますが、これはイエスがこの地に来られた意義について暗示するものです。
過越の祭り:罪の贖いのための供え物となった小羊 過越の祭りは、罪の贖いのために死なれた神の小羊イエスを描いています。ヨハネの福音書には過越の祭りが10回出てきますが、2章13節では「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた」と記し、6章4節では、五つのパンと二匹の魚の奇蹟の起こった時期が、「ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた」時だと明確に語っています。これは、この奇蹟を行われたイエスの存在意義と過越の祭りとを意図的に結びつけようとしたものと思われます。つまり、この奇蹟を紹介しながら、共観福音書で言及していない過越の祭りについて語り、イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29, 36)として十字架で死なれる方であることを暗示しているのです。 12章1節の過越の祭りもイエスの死と関連しています。著者は、この時を「過越の祭りの六日前」と紹介し、過越の小羊として世に来られたイエスの姿を再び暗示しています。さらに「過越の祭りの六日前」にイエスが「死人の中からよみがえらせたラザロ」のいるベタニヤにおられたと記しているのは、ラザロが生き返った出来事を通して、イエスの死と復活を読み取ることができるようにするための文学的装置です。 13章1節の過越の祭りもイエスの死とつながっており、19章14節ではイエスの処刑の言い渡しを過越の祭りと結びつけています。著者は、共観福音書には出てこない「ヒソプ」(19:29)という単語を用いて旧約の「ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない」(出 12:22)というみことばを連想させます。これにより、イエスの十字架上の出来事と、過越の祭りに子羊をほふる出来事とを結びつけているのです。 このように、ヨハネの福音書の著者は、過越の祭りを通して、イエスの死が、罪人のためのなだめの供え物としての贖いの死であったことを暗示しているのです(Ⅰヨハ 2:2;4:10参照)。
仮庵の祭り:終末の預言者であるメシヤ 仮庵の祭りは、新約聖書の中では唯一ヨハネの福音書にのみ出てきます。「さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた」(7:2)。仮庵の祭りは、過越の祭り、五旬節とともに、イスラエル三大祭りの一つです。ヨハネの福音書では、みことばの宣言と結びつけて、イエスがこの地に来られた目的が、神から遣わされた終末の預言者であるメシヤとしてであったということを暗示しています。事実、イエスは神殿を背景にユダヤ人たちを教え、ご自身が単なる預言者ではなく、メシヤであることを明らかにされますが、人々はそれを悟りませんでした。ヨハネの福音書の著者は、仮庵の祭りを通して、モーセがイスラエルの民を導き出したように、イエスがこの世の救い主として神の国を実現されることを暗示しているのです。
宮きよめの祭り:まことの神殿、まことの光であるイエス 宮きよめの祭りもヨハネの福音書にのみ出てきます。「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった」(10:22)。この祭りは“新しくした日”を意味し、イスラエルの民がシリヤの王に奪われたエルサレム神殿(BC 168年または167年)を取り戻し、神に奉献したこと(BC 165年または164年)を記念する祭りです。旧・新約の中間期に設けられた祭りなので、旧約のモーセの律法にはありません。この祭りの期間は、多くのともしびで神殿を装飾するため、「光の祭り」とも呼ばれます。著者が宮きよめの祭りに触れたのは、真の神殿、真の光であるイエスの姿を暗示しようとする意図があります。
このように、上記の三つの祭りには、イエスが、十字架の死と復活、昇天を通して救いのみわざを成し遂げ、新しいイスラエル共同体が立てられることを暗示する神学的な意味が込められてるのです。
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