チョ・ソクミン Ι エズラ聖書大学院大学校 新約学教授
ヨハネの福音書は、共観福音書と比べると、執筆目的が非常に明確です。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハ 20:31)。このみことばからわかるように、“信仰”と“永遠のいのち”がこの書の重要な主題です。 著者は、ヨハネの福音書の目的が成就されることを、さまざまな人物を通して示しています。シモン・ペテロ、ピリポ、ナタナエル、ニコデモ、サマリヤの女とその周りの人々、マルタとマリヤ、トマスなどです。中でもニコデモは、ヨハネの福音書の執筆目的に最適の人物のようです。彼は、この福音書の最初の部分の3章1~21節と中間部分の7章45~52節に二度登場し、最後の部分の19章38~42節にもう一度登場します。
救いの道に踏み込んだニコデモ ヨハネの福音書は、いのちの源であるイエスがこの地に来られたことと、この方を信じる者はだれでも神の子とされ、救われるということを知らせる、いのちの福音書です(3:16参照)。著者は序論で、イエスを信じて神の子とされる道を明示しています。「…しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(1:10~13)。 この内容は、3章に登場するニコデモを通して具体的に示されています。ヨハネの福音書全体で「神の国」という言葉は二度出てきますが、それが3章に出てきます(3, 5節)。神の国の本質は永遠のいのちですが、この「永遠のいのち」という単語が述べられている個所もまた3章にあります(15~16節)。イエスはニコデモに神の国と永遠のいのちについて語られたのです。 しかし、私たちは、ニコデモがイエスに会った後に救われたか、永遠のいのちを得たかということはわかりません。彼がイエスに会い、神の国と永遠のいのちについての尊いみことばを直接聞いたなら、明らかに救いの道に入っただろうと思われますが、著者はこの部分について何も語っていないからです。その後、ニコデモが再び登場するのは7章45~52節です。 7章では、仮庵の祭りの時期にイエスがエルサレムへ上って行かれ、宮で教えられる姿と、ユダヤ人たちと論争される場面が登場します。祭司長やパリサイ人たちがイエスを捕らえようと血まなこになって論争しているとき、ニコデモが「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか」(51節)と言ってイエスを弁護します。ユダヤ人たちがイエスの言動を確認もせずに裁判にかけようとすると、ニコデモがイエスのために正しいさばきをするよう求めたのです。 先に述べたように、ニコデモがイエスに会った後に、いのちの主として信じたかどうかはわかりません。この場面でも、ニコデモ自身の信仰告白はありませんが、イエスのためにユダヤ人たちの過ちをとがめ、正しいさばきを求めたことから、明らかに彼の心や考えに変化が起こったことがわかります。
信仰告白を行動によって示すニコデモ 最後にニコデモは、イエスが死なれた後、そのからだを埋葬する人々の中に再び登場します。「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた」(19:39~40)。ニコデモはイエスを埋葬するために香料を持って来ましたが、その量は当時の王の葬儀に使うほどの量でした。このような彼の態度や、イエスのからだの引き取りを申し出たことを見ると、明らかに彼は以前のニコデモとは違っていました。 通常、信仰は、口による告白でわかりますが、時には行動に現れることもあります。また信仰とは、一度に完成されるのではなく、少しずつ変化する過程であり、成長し続けていくものです。私たちはニコデモを通してそれを垣間見ることができます。このような点で、ニコデモは、ヨハネの福音書全体の目的と意味を最もよく表している人物だと言うことができるのです。
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