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キリストに立ち返る日本を夢見て
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笑われる門には福来たる!! |
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大和カルバリーチャペル 主任牧師 大川従道
新年あけましておめでとうございます。
日本では昔から「笑う門には福来たる」と言われてきましたが、私はそれをもじって、「笑われる門には福(祝福・福音)来たる」と言い直したいと思います。 歴史の中で最も笑われ、ばかにされてきたのは、イエス・キリストです。そしてイエス様を救い主として宣べ伝えると、石やツバキが飛んできて、迫害されたり殉教したり、というのがキリスト教の歴史です。福音宣教の現場で、人々に笑われない現実に問題があるのです。「日本とは宣教師の墓場である」と言われたら、それこそ本物の宣教と言えるでしょう。 ヨナ書を読むと、ヨナが主の御旨に不従順であったために、主が「大風を海の上に起された」(1:4、口語訳)とあります。『リビングバイブル』には、福音を伝えなければ「災いに会います」(Ⅰコリ 9:16)とありますが、日本の教会はずいぶん災いに会っていると言ってもよいでしょう。もうそろそろ、目をさます時が来ています。「熟睡」(ヨナ 1:5、口語訳)から立ち上がらなければ大変なことになります。 口語訳聖書では、ヨナが「わたしにはよくわかっています。この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです」(1:12)と言っています。ヨナの自覚の中に、“災いは、自分が神に従わなかったから起こったのだ”という悔い改めがあったことがわかります。それと同じ個所が、新改訳聖書では「わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです」と表現されています。両方とも、驚くべき解釈です。 ビル・ジョンソン師の著書の中に、「賜物はただで与えられるが、成熟には犠牲が伴う」とあります。伝道者の背後には不従順が、教会の背後には未熟性があります。しかし、それらの弱点を補い、整えるために、神様があえて激しい暴風を許されることがあるのです。あなたはヨナのように「わかっています」と告白できるでしょうか。 最近の日本の状況は、まさに、「火よ、あられよ、雪よ、霜よ、み言葉を行うあらしよ」(詩 148:8、口語訳)の世界のようです。新共同訳聖書では、「御言葉を成し遂げる嵐よ」(詩 148:8後半)と表現されています。また、口語訳聖書の詩篇114篇8節には、「主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた」とあり、それが新改訳では、「神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に」と表現されています。 本郷善次郎師の召天直前のメッセージに次のようなことばがあります。 「堅い岩のような頑固な性質でも、“砕かれれば”人々の心を潤す水を湧き出す泉になれます。人は砕かれなければなりません。」 日本列島は、3.11の「東日本大震災」以外にも、ここ数年、砕かれ、泣き叫び、祈らざるをえない経験が多々起こっています。これからも起こることでしょう。それらのことが「私たちのせい」「私たちのため」と、あなたは言い切ることができるでしょうか。それは、神の御前に祈り伏す者のみの奥座敷の光景なのでしょうか。 大沢武男著『ユダヤ人の教養』の中で、著者は、「ディアスポラされても、3千年もの間、同朋意識を持ち続けた民族は、ほかにない。ユダヤ人は『聖書の民』だ。聖書教育ぬきにユダヤ民族は存続しない。ディアスポラ・ユダヤ人の不屈の対決力、積極性底力が日本人には欠けている。嘆いたり、耐えたり、悲しんだり、不平をもらしていても、尻すぼみになるだけ。日本民族よ、もっと大人になれ!!」と叫んでいます。 重要なことは、苦難の歴史に裏打ちされた教育への姿勢と教養への態度です。小松左京の『日本沈没』を想起させてくれます。彼は執筆当時、ユダヤ民族を意識していたのでしょう。(2007年2月「ブックサービス」のインタビューで明言しておられました)。 日本人が、今何をすべきか、どのように整えられるべきかを考えてみましょう。それに対する反応は、「むずかしくて、よく分からない」というのが正直なところでしょう。しかし、心配することはありません。主は「備えてくださる神」(創 22:14参照)なのです。 そのような神様の姿がヨナ書では、「主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた」(1:17、口語訳)と表されています。 次の個所は、まるで日本人の叫びの祈りのようです。「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた」(ヨナ 2:2、口語訳)。 創世記22章14節で「アドナイ・エレ」(口語訳)、「ヤーウェ・イルエ」(新共同訳)と表現されている神様は、まさに「主の山(魚)に備えあり」であり、次々に「とうごまを備え」、「虫を備え」、「暑い東風を備え」(ヨナ 4:6~8、口語訳)、それらの過程を通してヨナの信仰を鍛えてくださり、主の御心を教えてくださいました。そして最後に、主はヨナに仰せられます。「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(4:11、口語訳)。 これらのみことばは、日本宣教をいのちがけで行っている人たちへの大いなる励ましです。主のあわれみは限りなく、まことにありがたいものです。
さて、最後に私に与えられている幻をお伝えしたいと思います。 1年ほど前のことです。創世記15章前後のみことばを通して、アブラハムの信仰について沈思黙考する時が与えられました。「主は彼(アブラム)を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』…アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創 15:5~6、口語訳)。 日本の宣教は、数ではなく、質の問題です。人々が教会に集まることは重要ではない、というようなことが、頭の良い学者風の指導者によって語られ続けてきました。伝道者たちは安堵して、数を意識しなくなりました。受洗者の数も、礼拝出席者の数も、気にしなくなりました。しかし、この考えは間違いだと、主からご指摘されたのです。 主は、「ニネべの右左をわきまえない民」を惜しまれました。日本の1億3千万人のたましいが滅びるのを惜しまれ、私たちの宣教をお許しくださっています。主は、ひとりのたましいも滅びることを望んでおられず、すべての人が真理を悟ることを願っておられるのです。 私は今月、73才になりますが、ハ・ヨンジョ先生との約束を果たしたいと祈っています。ハ先生は、淀橋教会における聖会のときに、「出て行って福音を伝えてください!」と獅子吼されました。その時、「若い伝道者のみなさん!じっとしていないで、出て行って伝道してください。副牧師が出て行かなければ、主任牧師が出て行って伝道したらよいのです!」と叫ばれました。そして、先生は「この意見に賛同する者は手を挙げてください!」と言われ、講壇にいた私も、高く手を挙げました。その日のメッセージが心に残っていて、思い出すと胸が熱くなります。自分の優柔不断な性格と不信仰に泣けてきます。 アブラハムはすでにかなりの高齢で、そんなアブラハムに子どもが産まれるとは、超不可能なことで、それを信じるのは超愚かと言えるでしょう。ところが、神の奇蹟が起こりました。まさに「笑われる門には福来たる!」です。このメッセージが私に迫ってきました。外の宣教は若い人々にまかせ、高齢者は守りを担当するのが常識と言えるでしょう。新しいいのちを生み出すのは、若い伝道者におまかせ、というのが健全な宣教姿勢です。 しかし、主が私を砕かれました。アブラハムに与えられた信仰は、そうではありません。高齢者に活力を与え、新しいいのちを次々に生み出す神の御力。それも、夜空の星の数のように、数え切れないほど多数のいのちを生み出すことがおできになるのです!日本にもそれくらいの数のリバイバルが起こるでしょう。神様は、「あいた器を借りなさい」(Ⅱ列王 4:3、口語訳)、「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」(イザ 54:2、口語訳)と言われます。そして、「子を産まなかったうまずめよ、歌え」(イザ 54:1、口語訳)、「大雨の音がする」(Ⅰ列王 18:41、口語訳)というみことばが実現する日が来ているのです。リバイバルの備えをしましょう! 「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、…若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」(使 2:17、口語訳)。これがペンテコステです!これこそリバイバルです!!
大川従道 1942年生まれ。東京聖書学院卒。青山学院大学神学科卒。深川教会・サンフランシスコ教会の牧会を経て現在の座間教会・大和カルバリーチャペルで奉職。主任牧師。ICA理事長、トーチ・トリニティ神学大学院にて名誉博士号授与。著書に『バカの壁を超えるもの』『生き方下手でも大丈夫』等多数。
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