チェ・スンジン ● 韓国トーチトリニティ神学大学院 旧約学教授
哀歌は、バビロンの王ネブカデネザルによって破壊されたエルサレムと荒廃したユダを見つめて悲しみ嘆く詩です。このような詩的な文学の仕組みは、読者にその廃墟のイメージを強烈に感じさせます。 BC 586年、エルサレムの神殿の破壊とバビロン捕囚は、イスラエルの歴史上、最大の変化を起こした出来事と言えるでしょう。ユダヤ教では、エルサレム神殿が破壊された日を回想しながら、毎年会堂で哀歌を朗読する伝統があります。
哀歌に描かれた悲しみと嘆き ここで哀歌が伝えようとしているのは、このようなわざわいが読者に与える心的、霊的な衝撃です。聖なる都エルサレムが廃墟となり、主の臨在を象徴するエルサレムの神殿が破壊されて踏みにじられました。神の永遠なる統治を象徴するダビデ王朝が没落したのです(Ⅱサム 7:14~16、詩89篇)。また、神の民はバビロンの捕囚民となり、神がイスラエルの民に与えられた約束の地カナンは、バビロンの支配下に入りました。 「神殿」、「ダビデ王朝」、「約束の地カナン」は、契約の観点でイスラエルのアイデンティティーを表す三大要素です。しかしBC 586年、エルサレムの崩壊とユダの滅亡により、この三大要素が崩れました。これがイスラエルに最大の混沌をもたらした出来事であることには違いありません。ここで私たちは、エルサレムの破壊とユダの滅亡の神学的な重要性を、神とイスラエルの契約関係の中で理解することができます。
契約的なさばき
ユダの状況 エルサレムの町が包囲される 食糧不足 捕囚民として連れて行かれる 神殿、王宮、及びエルサレムの崩壊 城壁が崩壊される 神殿が略奪される 指導者たちが殺される バビロンの属国となる
聖書個所 2:20~22;4:1~18 1:11, 19;2:11~12, 19~20;4:4~5, 9~10;5:9~10 1:3, 5~6, 18;2:2, 9;4:19~20 2:3~5;4:11 2:7~9 1:10;2:6~7 1:15;2:20;5:12 1:1;5:2
エルサレムの崩壊とユダの滅亡の深刻さを考慮するとき、イスラエルの民のおもな関心は「神と自分たちとの間の契約関係はまだ有効か」ということでした。 哀歌をエレミヤのメッセージと結びつけて読むと、ユダに臨んださばきの理由を、国家的な次元でユダが犯した罪から見いだすことができます。哀歌は、エルサレムの崩壊やユダの滅亡が、預言者と祭司のためだと言っています(4:13)。指導者である彼らがイスラエルの民を誤って導き、すべての民を不従順の道に追いやったからです。 ユダは神のみことばに絶対的に従うべきでしたが、背教行為を繰り返しました。北王国イスラエルの滅亡(BC 722/721年)を目の当たりにしながらも、南王国ユダはそこから何の教訓も得られなかったのです。 もし彼らが北王国の例から教訓を得て、悔い改めて神に立ち返っていたなら、エルサレムの滅亡は避けられたはずです。結局、エルサレムの破壊の直接的な原因は、契約を破って義務を怠ったユダの民自身にあったのです。 また哀歌は、契約的な罪とさばきの観点から読みとることができます。イスラエルは神の民であり、神はイスラエルの神である(出 6:7、申 7:6)という、旧約聖書全体に流れる契約の概念が、哀歌にもあります。 ところで契約が守られるためにイスラエルに求められることは、主に対する絶対的な忠誠です。申命記28章にあるように、契約に従うなら祝福が、従わないならのろいとさばきが約束されています。哀歌で述べられているわざわいは、イスラエルの不従順によって起こった契約的なさばきを暗示しています。ですから、歴史的にはイスラエルはバビロンによって破壊されて滅亡しましたが、それは契約に対する不従順のために神が下されたさばきだったのです。
契約的な希望 「神の主権」、「義」、「さばき」、そして「未来の希望」が哀歌のテーマです。契約への不従順のためのさばきの根拠は、神の義です。しかし、神はその絶対的な主権により、ユダの未来に新たな希望を与えてくださいます。真実な神は、契約も真実に守られ、わざわいの後にイスラエルの民を契約的な希望へと導かれます。神はイスラエルの民を忘れず、捨てられません(5:20参照)。 イスラエルは不従順の結果としてさばきを免れられませんでしたが、それでも神はイスラエルの神であられ、イスラエルは神の民であることに変わりありません。イスラエルに対するさばきは一時的でしたが、イスラエルに対する神の愛は永遠です。これは、イスラエルと神との間の契約に基づきます。契約の真実さに基づく神のあわれみは、永遠にイスラエルとともにあるでしょう。
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