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教会成長のための牧会戦略
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平和主義に対するユダヤ的な観点 |
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聖書の世界が見えるアカデミー代表 リュ・モーセ
トルストイ、ガンディー、マルティン・ルターのような偉人たちは、イエスを代表的な「平和主義者」ととらえ、それぞれの活動を通して平和主義を訴えました。彼らが及ぼした世界的な影響力により、クリスチャンだけでなく、ノンクリスチャンでさえ、イエスを平和主義者だと思っている人がたくさんいます。 「人を殺してはならない」、「悪い者に手向かってはいけません」、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」山上の垂訓のうち、この三つは、イエスを「平和主義者」とみなすのに決定的な役割を果たしました。しかし、単にこのみことばだけを見てイエスを平和主義者とみなすのは、聖書全体を見るとき、対立する面が多くあります。 福音書でイエスは、「悪い者に手向かってはいけません」と言われましたが、ヤコブの手紙では悪い者、つまり「悪魔」に立ち向かいなさいと、相反する教えをしています(ヤコ 4:7)。ガンディーのような「非暴力、無抵抗、不服従」の平和主義の概念から見るとき、ゲッセマネの祈りの現場で剣によって武装していた弟子たちと、着物を売って剣を買うように勧められたイエスのみことばは、大きな衝撃を与えることでしょう(ルカ 22:36, 38)。 このような例は、あまりにも複雑で教理的だと主張する人たちがいるかもしれないので、より現実的な状況を例に挙げてみましょう。 真っ暗な夜道を歩いていて強盗に出会ったとしましょう。そんなとき、「人を殺してはならない」というみことばに従い、自分への正当防衛さえ放棄するべきでしょうか。「悪い者に手向かってはいけません」と言われたので、素直にすべての物を強盗の好きなようにさせるべきでしょうか。 戦場では、さらに複雑な問題が生じます。戦場では、必然的に敵軍を殺すしかない状況に追いやられますが、それなら最初から参戦を拒むべきではないでしょうか。さらには、戦争で敵を殺す訓練をする軍隊に入ることさえやめるべきではないでしょうか。これらの例は、私が無理に作り出した話ではありません。キリスト教の歴史に常に実在し、今日も存在するキリスト教の分派や異端の教えなのです。 宗教改革時代に「アナバプテスト」と呼ばれる極端な宗派がいました。彼らは、イエスの山上の垂訓を最高の教えと考え、特に「人を殺してはならない」というような平和主義の説教に深い感銘を受けました。彼らが追求した信仰の路線は極端な平和主義であり、これにより徴兵を拒み、戦争への参戦を嫌悪しました。当時、ヨーロッパのキリスト教社会は、イスラムをたたえるオスマン・トルコの脅かしによって窮地に追いやられたため、アナバプテストのこのような主張はとうてい受け入れがたいものでした。当然、彼らへの激しい迫害が増すしかありませんでした。今日はアナバプテストに対する再評価がなされていますが、いずれにせよ平和主義に対する彼らの極端な態度は、明らかに今日も問題になるでしょう。これ以外にも、エホバの証人のようなキリスト教の異端では、平和主義に対する同一の観点を固持しています。 「人を殺してはならない」、「悪い者に手向かってはいけません」、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」というみことばをもとに、イエスを鳩のような「平和主義者」と断定することは、明らかにみことばを正しく理解していないところから生じるものです。また、このようなみことばに対する誤解は、残念なことに翻訳の誤りに起因します。「平和主義」に関する三つのみことばを、ユダヤ的な観点から理解するなら、私たちはまったく別の結論に達することでしょう。
人を殺してはならない 「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています」(マタ 5:21)。イエスのこのみことばは、確かに十戒のうちの第六戒を指したものです(出 20:13、申 5:17)。その解釈で重要なのは、「殺す」に該当する動詞です。「殺す」にはヘブル語で“ラツァフ”と“ハラグ”の二つの動詞がありますが、それぞれの違いをまとめるとこうなります。“ラツァフ”は計画的で、意図された殺人を意味し、“ハラグ”は正当防衛の殺人、戦場で敵軍を殺すこと、業務上過失致死など、理由や状況を問わず人を殺すいっさいの行為を意味します。 では、十戒で「人を殺してはならない」と言うときに用いられたヘブル語の動詞は何でしょうか。当然、“ラツァフ”です。モーセの律法は、あらゆる種類の殺人を禁じたわけではないのです。そうでなければ、死刑に当たる罪の処罰を直接命じられた神も、ご自身が定めれらた十戒を自ら破るというあきれた状況が生じることになります(出 21:16;22:18, 19)。 新約聖書が記されたギリシャ語でも、二種類の殺人に対する明確な区別があり、「計画された殺人」を指す“ポニューオ”を用いています。しかし、これが英語に翻訳される際、深刻で致命的な誤りが生じました。英語聖書で最も古典的で権威のあるKJVでは、この動詞を広範囲の殺人を意味する“kill”と訳しました。最新の英語聖書ではこれを正し、「意図的な殺人」を意味する“murder”としましたが、KJV聖書が持つ膨大な影響力により、この翻訳の過ちは、いまだに英語圏の信仰者たちに「正当防衛」に対する認識に大きな影響を及ぼしています。 聖書は決して盲目的な平和主義を擁護していません。すべての人には、時に正当防衛の殺人を通してでも、神がそれぞれに与えられたいのちを保つ義務があります。これが聖書の教えを人生に正しく適用することです。 「もし、盗人が、抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、血の罪は打った者にはない」(出 22:2)。このみことばを通して神は、夜にこっそり忍び寄る盗人に対しては、先制攻撃してその盗人を殺すことが正当防衛であり、それは無罪であると宣言しています。
悪い者に手向かってはいけません 「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません」(マタ 5:38~39前半)。このみことばの「手向かってはいけません」という部分で、ほとんどの英語聖書は“resist”を用いていますが、これもまた、深刻な翻訳の誤りに該当します。弟子たちが、世で出会う悪に対して手向かわず、順応し、ひれふすようにとイエスが教えられたことは一度もありません。さらに、聖書全体の思想に照らして見ても矛盾しています。 ヘブル語の動詞を調べてみると、これはイエスが山上の垂訓を通して新しい概念を作り出されたのではなく、旧約聖書のみことばを引用されたことがわかります。これは、「悪い者と競争しながら、イライラしたり、焦ったり、憤ったりしてはいけません」という有名なヘブル語の格言ですが、詩篇や箴言にその教えがよく表現されています。 「悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな」(詩 37:1)。「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな」(箴 24:19)。この二つのみことばの中の「腹を立てるな」、「ねたみを起こすな」という動詞をヘブル語の原形に照らして見ると、「競争することにより、ねたみに燃えないこと」という意味になります。詩篇と箴言のみことばの焦点は、悪を行う者は結局滅びるので、義人は悪者の行いに決して神経をとがらせるなという意味です。 そのような意味で、悪を行う者に「手向かってはいけません」というみことばは、イエスの弟子たちが悪を行う者と「競争しながらねたみ、腹を立て、怒りを燃やしてはならない」という意味に訳されるのが、ヘブル語の原語とイエスの本来の教えに沿った正しい翻訳と言えるでしょう。 悪い者との競争によるねたみや怒りは、結局「復讐」を生み出します。ですから、「悪い者に手向かっては(resist)いけません」は「悪い者に復讐しては(revenge)いけません」と訳すのが、原語の意味に近いのです。すぐ前の38節にも「目には目、歯には歯」のような復讐に関する話が出てくるので、悪い者に「復讐してはいけません」と訳すとき、その意味がずっと自然につながります。イエスは、悪い者に対する抵抗を放棄し、すなおに服従せよと教えられたことはありません。
右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい 「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタ 5:39後半)。イエスを平和主義者と誤解するのに、最も決定的な役割を果たしたこのみことばは、ノンクリスチャンの間でも有名なものです。右の頬を打つ敵に「左の頬も向けよ」というみことばに、そのまま従わなければならないとしたら、暗い夜道で出会う強盗にどのように対処せよというのでしょうか。 上のみことばの前半を正しく翻訳し、理解したなら、後半も上記のような状況で悩む必要はなかったでしょう。イエスは、自分を殺そうとする盗人に、右の頬だけでなく、左の頬も向けよと命じられたことはないからです。 このみことばの解釈での焦点は、右の頬を打つ敵対的な「隣人」がだれかということです。これはクリスチャンが日常生活で何度も遭遇する兄弟姉妹との関係、さらにはノンクリスチャンの隣人との敵対的な行為をたとえたのであって、決して私たちのいのちを脅かす殺人者や暴力的な状況、または敵軍との戦闘状況とは、最初からかけはなれたものです。 たとえば、隣人がゴミ袋をこっそりと自分の家の前に捨てたとしたら、私たちがこっそりと2倍のゴミ袋をその人の家の前に捨てて復讐したくなります。また、運転中に自分の前に横入りしてくる車を見て、興奮して速度を上げ、その車を追い越したくなります。 私たちの日常で出会う隣人の敵対行為に対抗し、すぐに復讐したいと思うのは自然な感情です。しかしイエスは、復讐を神にゆだねて、隣人が恥ずかしくなるほどに善をもって悪に報いなさいと教えられます。 また、隣人の敵対的な行為は、私たちが「左の頬も向けなさい」というみことばに従って行動さえすれば、すぐになくなる「日常的な」ことです。もちろん、隣人の敵対的な行為が、私たちのたった一度の善行により、瞬時に和らぐことはないにしても、何度か繰り返すうちに、十分に溶けて、消えることでしょう。このみことばの状況は、決していのちをおびやかす暴力的な状況や戦闘の状況などを念頭に置いたものではないのです。
リュ・モーセ 慶熙大学漢方医学課卒業、江南白病院にて漢方医学長となり、ヘブル医大細胞生理学修士課程と、ヘブル医大薬理科学博士課程を卒業。現在、聖書の世界が見えるアカデミー代表
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