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教会成長のための牧会戦略
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両刃の剣のような神のみことば |
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All Nation Church 聖書担当牧師 ジュ・ヘホン
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」(ヘブ 4:12~13)。 神によるみことば 聖書は、人の言葉や行いを記録したものではなく、聖霊に動かされた人たちによって神の聖なるみことばを記した書なので、聖なる書、つまり“聖書”なのです(Ⅱペテ 1:21参照)。神のみことばはきよいので、そのみことばを聞き、読み、行う者たちをきよくする力を持っています。ヘブル人への手紙4章12~13節にあるように、神のみことばには、人の価値観や世界観を変え、汚れた思いや行いをきよくする力があるのです。 イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」(ヨハ 15:3)と言われ、ダビデも「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです」(詩 119:9)と言って、主のみことばが私たちの歩みをきよくできると告白しています。ですから、今日の私たちも、主のみことばと祈りにより、人生の価値観を新たにし、行いを正し、きよい人生を歩むことができるのです(Ⅰテモ 4:5)。 私たちは聖書に向かうとき、きよい心と姿勢を持たなければなりません。私たちが世的な思いを持って聖書に向かうなら、聖なる神のみことばが私たちの中で働かないからです。信仰が弱く、聖書をよく理解できないこともあるかもしれません。しかし、故意に聖書を分析したり批判したりすることは、神のきよいみことばに敵対することになるので、神のみことばに向かうときは、いつもきよい敬虔な姿勢を持たなければなりません。
約束といのちのみことば 聖書はまた、神の約束です。数多くの神の約束で満ちています。旧約と新約は、ことばどおり神の古い約束と新しい約束を意味します。旧約聖書は天地創造からはじまり、新しい契約を立てるメシヤが来られる直前まで、神が人間と結ばれた約束を記しています。新約聖書は、神がイエスを救い主として受け入れる人々と結ばれた約束の内容を記しています。 また、新約聖書は、旧約聖書を根拠として神の約束の関係を明らかにし、さらに旧約聖書の数多くの預言がどのようにキリストの十字架の上で成し遂げられたかを示しています。したがって、私たちは旧約と新約に記された神の約束のみことばを、そのまま受け入れる姿勢を持たなければなりません。神は変わることがなく(マラ 3:6参照)、約束のみことばをそのまま成し遂げられる方だからです(ロマ 4:21参照)。 神のみことばは、約束であるだけでなく、いのちのことばでもあります(Ⅰヨハ 1:1)。したがって、神のみことばを聞いて信じる者は、たましいが神のいのちを受け、永遠のいのちを得るようになります。私たちが霊的ないのちを保つためには、たましいの糧である神のみことばを食べなければなりません。イエスは、サタンの試みに会われたとき「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタ 4:4)と言われました。私たちが肉のいのちを保つために肉のためのパンを食べなければならないように、霊的ないのちを保つためには霊の糧である神のみことばを食べなければならないのです。 また、聖書は、私たちに霊的な新しいいのちを与えるだけでなく、私たちの信仰を成長させ、複雑で険しいこの世を生きていくために必要な人生の方向性を示してくれる、羅針盤のような役割も果たします。
みことばには力がある 聖書は信じる者に大きな力として現れます。第一に、神のみことばには罪の赦しと救いの力があります。使徒パウロは「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ロマ 1:16)と告白しています。また、ヘブル人への手紙1章3節には、主が力あるみことばによって万物を保っておられ、罪のきよめを成し遂げると記されています。 第二に、神のみことばにはいやしの力があります(詩 107:20)。私たちが神の約束のみことばと、聖霊による神の力を信じて拠り頼むとき、私たちの心と肉体の病はきれいにいやされるのです。 第三に、神のみことばには悪魔を退ける力があります。エペソ人への手紙6章17節を見ると、私たちが悪魔に立ち向かう方法の一つが、神のみことばである御霊の与える剣で悪魔を攻撃することだと教えています。したがって、悪魔が私たちを攻撃してくれば、神のみことばで悪魔の策略に対抗できるのです。
みことばの力はレーマで読むときに現れる みことばはギリシャ語で「ロゴス」とも「レーマ」とも言います。英語の場合、「言語(language)」と「言葉または音(speech)」はそれぞれ「抽象的、心理的な言語」と「具体的、物理的な言語」とはっきり区分することができます。しかし、ギリシャ語の場合、強いて区分するなら、「ロゴス」は「論理的、客観的、存在論的な言語」となり、「レーマ」は「現象(出来事)的、主観的、体験論的な言語」となります。 すなわち、「ロゴス」は「論理(logic)」に語源を置き、「レーマ」は「直接的な言及や話すこと(utteranceまたはspeaking)に語源を置いているということです。したがって、「ロゴス」が、神の話された(speaking)ことばが石に刻まれた十戒のように文字で記され、すべての人たちに対して開かれ、適用されることを待っている聖書(みことば)だとするなら、「レーマ」は、そのロゴスが生命力を持って個人の人生の中で生きて直接語られることによって(speaking)、これを聞き、直接人生に適用し、行動を促す動力となるものです。新約聖書にロゴスは330回、レーマは70回出てきます。
私たちは前述で、神のみことばは記されたみことばであり、約束といのちと力があるということを見てきました。ところで、このような神のみことばを無条件に信じるからといって、神の偉大な力と祝福が私たちのものになるわけではありません。 創世記から黙示録まで記された神のみことばは、ギリシャ語で「ロゴス」と言います。この「ロゴス」は一方的な神のみことばです。この「ロゴス」を中心に聖書を読むことを、知性的な読み方と言います。知性的な読み方を通して神のみことばを一つの概観的な真理や事実(fact)を把握するために読むなら、神のみことばが持つ力を体験できません。 このみことばが自分自身にとって特別な「両刃の剣」となり、たましいと霊と肉、そして関節と骨髄を刺し通す力あるみことばとして働くためには、私たちの心の中に神のメッセージが聞こえなければなりません。つまり、初めに天と地を創造したみことばの力が、今、神と正しい関係を完全に回復させ、私たちの人格と品性を再創造するみわざが起こるようにするために、私たちは神が聖霊を通して私たちの心の中に特別に与えてくださるメッセージによってみことばを読むことができなければならないのです。そんな読み方を感性的な読み方と言いますが、これは知性的な読み方を通して得られた真理に対する確かな信仰の上で可能になります。この信仰を生じるようにさせるみことばを、ギリシャ語で「レーマ」と言うのです。 私たちが手にしている聖書に記された神のみことばは、「ロゴス(記されたことば)」、つまり、白紙の上に刻まれた文字にすぎません。これはまるで、十戒の石の板が尊い宝物として遺物箱に保管されているのと変わりありません。しかし「レーマ」は違います。使徒の働きの中の使徒たちや弟子たちが行動する原動力こそ、聖霊が直接語りかけられる「レーマ」にあったように、「聖書にありました」とか「神が言われました」というレベルではないことがわかります。 「レーマ」は、神がある個人に直接語られたり、体験させたりすることにより、その書かれた聖書のみことばの意味と神の御心を悟らせ、そのみことばのとおりに動かす力があるのです。つまり、「レーマ」は「生きて働くみことば」なのです。私たちが聖書を読むとき、ある聖句が突然心に響くことがありますが、まさにそのみことばが「レーマ」であると言えます。私たちがこの「レーマ」を受けるようになれば、奇蹟的な信仰が芽生え、神の奇蹟を体験できるようになります。ですから、私たちが聖書を読むときは、単に一方的な神のみことばとしてだけ読まないで、生きて働くみことばである「レーマ」を受けるために、聖霊の助けを受けるよう努めなければなりません。ですから、きょう開いた聖書も「~でした」という客観的な知識のレベルの「ロゴス」にとどまらず、神が直接語りかけ、そのみことばの力を体験させる「生きて働く神のみことば」として受け入れる主観的な体験と行動のレベルの「レーマ」にまで高めなければならないのです。そしてそれは、QT、つまり、みことばの黙想を通して可能なのです。
ジュ・ヘホン 現在、アメリカ・ロサンゼルス近郊のサンランドにあるANC(All Nation Church)でバイブル・カレッジ担当牧師として仕えている。延世大学行政学科を卒業後、渡米し、ボストン大学経営学修士学位を取得。カリフォルニア州政府監査官として25年間勤務し、引退。聖歌隊の指揮者として奉仕し、20年間聖書を教えている。その後、パシフィッククリスチャン大学(ホープインターナショナル大学)大学院で牧会学(修士)を学び、ロサンゼルスにあるアメリカ総神神学校とユニオン神学校で講義する。
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