シン・ヒョンウ ● 総神大学 神学大学院 新約学教授
マルコの福音書は、「イエス・キリストの福音入門」が主題であり(1:1)、福音の核心と基礎的な内容が記されており、福音書の中で最初に学ぶのに適しています。
福音:サタンからの解放の知らせ 序文(1:2~15)で、バプテスマのヨハネとイエスを紹介しています。ヨハネは荒野に住み、水でバプテスマを授け、メシヤが来られることを宣言します。イエスはバプテスマを受けて荒野にとどまった後、神の国が近づいたと宣言されます。ヨハネがメシヤを「聖霊のバプテスマをお授けになる方」と紹介したことから、イエスの働きは、聖霊によってバプテスマをお授けになる働きであると理解できます。イエスが働きを始める前に天から聖霊が臨んだことから、主の働きは聖霊によってなされた御業であると言えます。 悪霊を追い出すみわざも聖霊によるものであり、イエスが聖霊によってサタンを縛られたことを示すしるしです(3:27)。サタンと戦ってサタンを縛られたことは、イエスが荒野でサタンの誘惑を受けて勝利されたことによって成し遂げられたものです。ペテロをサタンと言われたこと(8:33)から推測できるように、サタンの誘惑は、苦難を受けて死ぬことを避けさせるものだったと思われます。ペテロがイエスの苦難と死を止めようとしたのは、ペテロがサタンの立場で代弁したことになるのです。イエスが十字架の苦難の道を最後まで歩んで殺されたことは、サタンに対する勝利です。この勝利を通して、イエスはサタンの奴隷だった民を解放させ、神の子どもとしてくださいました。 マルコの福音書は「イエスが神の子、すなわちメシヤであるという福音」が人々が作り出したものではなく、天から神が宣言された啓示であることを教えてくれます(1:11)。また、そこに込められた福音は、神の国が近づいたということです(1:15)。神の国は、神の統治時代を指します。いまや新しい時代が迫っています。この時代は、新しい約束と贖罪を成し遂げるイエスの十字架の死を通してついに到来します。
十字架の復活を通して来る神の国 マルコの福音書の第1幕(1:16~8:21)は、ガリラヤ湖とその周辺を背景に展開します。イエスは数々の奇蹟を起こされ、これらのしるしがメシヤであることを証ししています。それだけでなく、異邦の地や異邦人たちにもしるしを行われたことは、イエスがユダヤ人だけでなく異邦人にとってもメシヤであることを示しています。 第2幕(8:22~10章)は、エルサレムに向かう道を背景に展開します。この部分は盲人のいやし(8:22~26)から始まり、盲人のいやし(10:46~52)で終わっています。ここで弟子たちはイエスを正しく理解できない霊的な盲人として描かれ、彼らの霊的な目が開かれ、イエスを正しく理解できるようになる過程が記されています。軍事的なメシヤを期待する弟子たちに対し、イエスは苦しみを受けて殺されることが神の御子に予定された道であり(8:31)、そのようなメシヤに従う弟子の道もまた、苦難の道であることを教えられます。 第3幕(11~16章)は、エルサレムを背景に展開されます。イエスはろばに乗ってエルサレムに入り、ゼカリヤ書9章9節で預言されたメシヤであることを示されます。そして、強盗の巣と化した宮をきよめ、宮は「すべての民の祈りの家」であることを思い起こさせます。その後、オリーブ山へ行って宮の破壊の前兆とその時に対して預言されます(13:3~37)。イエスは弟子たちと最後の晩餐の時を過ごし、ご自分の死は契約と贖罪を意味することを教えられます(14:24)。この時、神の国で新しく飲むその日まではぶどうの実で造ったものを飲むことはないと言われたぶどう酒を(14:25)十字架上で飲まれたことは(15:36)、十字架の苦難を通して神の国が到来したことを示しています。 第3幕では、イエスがどのような方であるかを具体的に記しています。イエスは大祭司に尋ねられたとき、メシヤ(キリスト)であることを認め、さらには普通のメシヤではなく、神としてのメシヤであることを明らかにされます(14:62)。ピラトがローマに武装闘争する勢力を持つ「ユダヤ人の王」かと尋ねたとき、原語を直訳すれば「あなたが(そのように)言って(主張して)いる」と答え、ご自分が軍事的なメシヤではないことを明らかにされます。 申命記21章23節に、木につるされた者は神にのろわれた者だとありますが、使徒や弟子たちは、十字架につけられたイエスを神にのろわれた者とは思わず、メシヤだと信じます。申命記で言う十字架ののろいを無効にしうるのは復活です。イエスが復活しなかったなら、弟子たちはイエスをメシヤとして信じられなかったことでしょう。しかし彼らの中で「イエスはメシヤ」だと信じる信仰が起こったことから、復活は歴史において確実に起こったことなのです。マルコの福音書は、この復活されたメシヤであるイエスに、ガリラヤに行って出会うよう私たちを招きながら幕を下ろします。
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