宮之原弘 ● 日本キリスト改革派多治見教会
今から20年前のことです。当時、私は刑務官でしたが、イースターも近い3月の夜、当直の責任者として死刑囚の舎房を巡回していました。すると、ある部屋の明かりがついていて、そこで死刑囚が黙々と絵を描いていました。実に見事な絵で、しばらく見とれていましたが、ピンとくるものがあり、つい私は彼に話しかけました。「見事な絵だな。もしかして、ヨハネ8章の罪深い女の絵かい。」すると彼は驚いて、「先生はこの絵がおわかりですか!」と堰を切ったように話し始めました。その死刑囚は、弁護士からもらった聖書を読むうちに神に出会い、自分の自分が犯した罪を深く悔いたそうです。そして、自分が死ぬことで被害者遺族が赦してくれるならば喜んで死んでお詫びしたい、その時まではこうして聖画を描きながら謝罪したい、と言いました。その時彼が描いていた聖画は、今も鮮明に私の記憶に残っています。ヨハネ8章は、姦淫の現場で捕らえられた女が最後にイエスに赦される話ですが、彼が描いたイエス像は、彼に手を差し伸べ、非常に優しい目をしていました。おそらく彼は、その絵を描きながら、女と同じように何度も何度も涙を流し、悔い改めてたことでしょう。しかし、もっと驚いたのは、あすにも刑が執行されるかもしれないのに、その死と向き合いながら話す彼の表情は、非常に穏やかで、むしろ輝いていたことです。 それから6年後、たまたま見たニュース速報で、彼の死刑が執行されたことを知りました。ショックでしたが、私にはルカの福音書にある、イエスが十字架につけられた光景が思い浮かびました。二人の犯罪人がイエスといっしょに十字架につけられ、一人の犯罪人はイエスを侮辱しますが、もう一人はイエスに信仰告白するのです。「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23:42)と。 その元死刑囚は、イエスを信じたばかりの頃、身内の不幸や試練に次々と襲われ、「イエスは自分を救ってくれなかった」と取り乱したそうです。しかし、私が対面した時の彼はたいへん落ち着いていました。彼は執行の時、天を見上げ、静かに処刑台を上って行ったに違いありません。 あの時の彼の穏やかな顔と輝きは、彼が自らを神にゆだねることができた結果なのかもしれません。今年もイースターを迎えました。塀の中の閉ざされた世界にも、救いと希望の光は確かに差し込んでいます。現在はミッションスクールの教壇にて、この真実を語り続けたいと願っています。
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