巡回宣教団代表 キム・ヨンウィ
私たちが生きていく中で、サタンが仕掛けたわなにより、とうてい抜け出す道がないように思えることがあります。そんなとき、真理を結論としてにぎって歩む者は、必ず主の御力を見ることができます。信仰の人々を見てください。あらゆる状況下で主が「インマヌエル」として現れます。「力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる」(箴 14:26~27)。 アブラハムも、未来に起こるすべてのことを知って主に従ったわけではありません。主から召しを受けて従いましたが、それ以後、自分の力では何もできないということを思い知らされます。何も知らずに従いましたが、主は彼のすべての歩みを導いてくださいました。危機的な瞬間は逃げ道を与え、失敗を犯したときは救い出してくださいました。何も知らず真理を宣言しましたが、主はその告白を覚えてくださり、常に守ってくださいました。 私たちは、非常に説得力のあることばをもって世を操る勢力を目にします。歴史の解釈者たち、思想、哲学、科学によって解き明かす人々の話を聞くと、まるで歴史がその人たちによって牛耳られているかのように思えてきます。また、ローマの皇帝、日本の天皇、タイの王などは自らを神と呼び、ヒトラーは自分がこの世を統一してみせると気勢をあげて世界大戦を起こしました。 もちろん、これらの出来事は、主の許しの中で起こったことです。あらゆる歴史の過程の中で悪が独裁し、サタンの勢力が勝つように見えます。しかし、目に見えない主こそ、実際の権力を持っておられるということを覚えてください。暗やみ中で奴隷のように生きながら、絶望とのろいとさばきを受ける世の運命を、主は見せてくださいます。この事実を知る神の人々と教会は、何をするべきでしょうか。まるでサタンが勝利しているかのように見える世の中で、私たちは終わりの時を見据えて福音を宣言しなければなりません。完全な道、安全な拠り所、唯一信じられる道なる主を見上げるよう、世に向かって叫ばなければなりません。 ヨセフの生涯を見てください。サタンの目的は、「神を信じてみたところで、意味がない」という落胆を植えつけることです。しかし、結末を見ると、サタンの勝利のように見えたのは束の間、結局はインマヌエルの主がヨセフを通して勝利を見せてくださいました。 永遠に変わらない事実である十字架の道を、さらに歩んでください。サタンのわな、サタンの影響力が通用しない所が「十字架の陰」です。最も完璧な拠り所、悔いなく堂々と歩める道、サタンの戦略がみなわからなくても、進むべき道がわからなくても、主を恐れる道だけを選ぶのです。そうすれば、堅固な拠り所であられる主によって、歴史の真ん中を堂々と歩むことができるのです。 ところで、十字架の陰で神を恐れるということは、何を意味するのでしょうか。第一に離れることです。神を恐れるというのは、罪と世の価値から離れ、自分の満足や利益を求める自我の牢獄から離れることです。十字架のない、人間の栄光だけを求める罪から離れ、悔い改めの促しのない不正で空しいすべてのものから離れ、神への不従順の場から即座に離れることです。第二に、神の御子と口づけすることです。神が下さった約束の中で最も心がはずむ確かな約束は、小羊との婚礼約束です。主との婚礼約束に加わってください。新婦は小羊のいのちの書に記された人、十字架の福音によりイエス・キリストに出会った人です。罪で満ちたすべての領域で、神の聖い統治がなされるよう、主への愛によりこの戦いの隊列に加わってください。 十字架の道は、私たちの目には愚かなものでも、神の力です。イエスは旧約の青銅の蛇を通して語られます。罪の運命から抜け出す道は、罪に対してさばかれることだけだということです。ところが、同時にそれを通して、主は十字架の奥義を現されます。それは、青銅の蛇により死んだのはまさに私であるという事実です。みなさん!罪のない神の御子が、人間と同じ姿で、人間の名札をつけて十字架につけられました。しかし、その十字架で死んだのは主だけではありません。私たちをも十字架につけてくださったのです。 みなさんにとって、福音は、いつ実際のものとなりましたか。言い訳や教理的な同意を求めているのではではありません。この出来事が客観的な事実である以上、私たちが人生においてその十字架を経験したことがないならば、十字架は私たちにとって何の関わりもありません。十字架を見上げてください。そして、そこで罪に対して死に、主とひとつの運命に結び付けてくれた十字架の力を味わってください。
キム・ヨンウィ 巡回宣教団代表 福音学校 主講師 世界祈祷センター代表
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