チャ・ジュンヒ ● 韓世大学 旧約学教授
サムエル記は士師時代と王政時代をつなぐ過渡期を扱っています。この中で、サムエル記第一は祭司エリと預言者サムエルの話から始まります(Ⅰサム1~7章)。サムエルとカリスマ的な王であるサウルに関する話がその後に続き(8~15章)、サウル王と後継者ダビデの葛藤、サウルの死をもって幕を閉じます(16~31章)。
世に従う イスラエルは、士師の時代を過ぎ、王の必要性を感じました。イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていました(士 17:6;18:1;19:1;21:25)。 当時の近隣諸国は、小規模な都市国家形態を脱皮し、かなりの勢力が集結した連合国家を形成し始めていました。急激に変動する国際情勢の渦中で、まとまりのない連合体制である12部族同盟体で構成されたイスラエルは、事実上、独立を維持するのが困難な状態でした。イスラエルも一国家として存続するためには、王を中心とした一つの強力な中央集権体制を目指さなければなりませんでした。サムエルは、最後の士師としてイスラエルを治めました(Ⅰサム 7:15~17)。 「神―王」を捨て「人―王」を立てる イスラエルの長老たちは、隣国のように王を立ててほしいとサムエルに要求します(Ⅰサム 8:5)。これはイスラエルの根本を変えようとする深刻な要求であり、サムエルは王政設立に反対します(6節)。 イスラエルは、主なる神とシナイ山で契約を結んだ民族です(出24章)。契約共同体であるイスラエルは、ほかの国とは違い、神のみことばに従い、それが要求するとおりに生活し、主なる神の愛と驚くべき約束だけに拠り頼む存在として召されました(出 19:4~6、申 7:7~11)。イスラエルの王は神ご自身です。王政の要求はこのような契約の民のアイデンティティーを真っ向から否定するものです。 サムエルは、王を立てる要求を喜ばずに拒否しますが、神は民の要求を聞き入れるようサムエルに命じられます(Ⅰサム 8:7~9)。しかし、神は王政を喜んで承認されたのではなく、仕方なく許可されたのです。神はサムエルを通して王政制度がいかに危険であるか厳しく警告されます(Ⅰサム 8:10~18)。王の権利を説明するサムエルの演説は、旧約聖書全体で、王政に対する最も辛らつで幅広い批判であると言えます。 この演説のキーワードは、六回繰り返される「取る」という動詞です(11, 13, 14, 15, 16, 17節)。王は「取る者(taker)」です。取る者である王は、エジプトから由来しています。結局、王を要求することは「主にある自由」よりも「人間の下での奴隷」を選んだということです。
「人―王」は消え去っても「神―王」は永遠 イスラエルは、神の統治の下で動く契約共同体です。契約共同体は、神の霊が下った指導者である士師によって動く「兄弟姉妹を助ける共同体」です。 神が王として治める共同体であるイスラエルは、人間の王を必要とせず、また必要としてはいけない特別な契約共同体でした。 しかし、イスラエルの有力者たちは、このようなイスラエルのアイデンティティーを否定し、これからはイスラエルの戦いも人間の王が主導権を握る戦いであるべきだと主張します。「私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう」(Ⅰサム 8:20)。 このような態度は、戦いは神の御手にではなく、軍事力と戦争専門家の指導力にかかっており、戦いの勝敗と神とを直接関連づけないというものです。これがまさに「神を排除する国家観」の始まりです。これは、主なる神がイスラエルの王であることを拒む最も強い背教行為です。「人を王として」拠り頼む王政は、神の民に対する神の本来のご計画ではありません。王政は権力を基盤とした搾取行為によって維持されていきます。反面、契約の共同体は、自発的な忠誠と服従を基盤としています。これは、神が私たちを神の民としてくださった関係を通して維持されていきます。これは王政が存在しなくても、王政が没落したとしても、神とイスラエルの関係には本質的な差がないという事実を暗示しています。 この点は、北王国イスラエルと南王国ユダの滅亡後、捕囚時代の主の聖徒たちにとって意味のあるメッセージとなるでしょう。「目に見える王政」は消え去っても、「目に見えない神政」は永遠です。あなたの王はだれですか。
|