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教会成長のための牧会戦略
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神の義はどこに |
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オンヌリ教会 英語礼拝牧師 エディ・ビョン
問題は神にではなく不正に満ちた世にある 世の中が不条理に満ちていて、問題であふれていることは、ニュースをほんの一瞬見ただけでもわかります。なぜ私たちの世の中には、こんなにも悪が横行しているのでしょうか。 これに対し、聖書がその原因を示しています。すなわち、私たちの生きるこの世は罪に汚され、堕落し、崩壊しているというのです。また、人間の心に大きな不義があるからです。パウロは次のように言っています。「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ 3:10)。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…」(ロマ 3:23)。つまり、不義の根源は、地上に住むすべての人間の心にある罪だということです。使徒パウロはテモテに対して「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい」(Ⅱテモ 3:1)と言っています。 世の中が不正に満ち、崩壊していることを、私たちは繰り返し目にしています。そんなとき、「誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである」(詩 73:3)というみことばが思い浮かびます。悪を行う人々が大手を振って逃げおおせるのを見るというのは、実に大きな憤りを感じさせるものです。ですが、世の中を見渡すと、ただ「悪がある」というだけでなく、「悪人が悪事に成功し、逃げおおせている」という現実を見ます。この大きな不条理に対処できる者はいないのでしょうか。この叫びに対する答えは、「いる!」です。悪を感知する者がいます。不条理に対処できる者がいるのです。では、私たちの生きる世の不正や悪という大きな問題に対して、どのような解決が与えられているのでしょうか。
解決は義なる神にある 悪と不義の問題に対する答えは、神です。なぜなら、主は正義の神であるからです。「主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」(イザ 30:18)とあるとおりです。公正な判決が裁判所を通して下されることもありますが、完全な公正さとさばきの究極の源は神であり、神こそが究極の裁判官なのです。 では、神が究極の裁判官であり、悪をさばかれる方であることが事実ならば、なぜ世の不正は依然として存在するのでしょうか。神は気に留めておられないのでしょうか。そうではありません。神はすでに不正と悪について対処され、終わりの日にさばきの時が来ます。そして神は、教会がその使命を果たすことを願っておられます。神がどのようにして世に義を実現されたのか、私たちはこの点に注目してみましょう。
神による悪への対処「十字架」 世の不正を見るとき、神の完全な贖いの歴史への理解が必要です。贖いの歴史には大きく四つの流れがあります。天地創造、人間の堕落、贖い、そして成就です。人間が神に反逆し堕落した後、世に罪が入りました。それ以来、神はご計画を持っておられ、そのご計画は神の御子イエス・キリストの誕生、死、復活によって実現したのです。神の正義の真髄は、このイエスによって体現されているのです。 イエスは、四十日間、悪魔から試みに会われたあと、ガリラヤに戻られ、公のミニストリーを始められました。そのとき、イザヤ書61章を引用しつつ世に霊的な解放がもたらされることを宣言されました(ルカ 4:16~19参照)。ティム・ケラー牧師は、イエスが引用されたイザヤのことばの中に、ある個所が抜けているという興味深い指摘をしています。イザヤ書61章1~2節を引用しながら、2節なかばでイエスはあえてそのことばを割愛されたのです。 イエスが引用されたのは次の個所です。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、(イエス、次の部分をとばして引用されました)われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め…」(イザ 61:1, 2)。 イエスは「われわれの神の復讐の日を告げ」という部分をとばして読まれました。なぜでしょう。厳しく聞こえることばを柔らかく言いたかったからでしょうか。それは違います。イエスがミニストリーのはじめの宣言として「神の復讐」すなわち「神の怒り」を割愛されたのは、ミニストリーのしめくくりに神の怒りを身に受けるのが、ご自分であることを知っておられたからです。つまり、「あなたがたへの神の復讐と怒りを宣言するのではなく、あなたがたの『代わりに』わたしが神の怒りを身に受けるのだ」と言われているのです。福音とは、イエスが十字架の刑を受けてくださったことを通して、私たちは神の怒りを免れたということです。ヨハネの福音書3章16~17節には次のようにあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」イエスがこの世に来られたのは、私たちが受けるはずだった神の怒りと責めを代わりに受けるためだったのです。イエスのミニストリーは、不義との戦いに根ざしています。私たちは、他者の不義に目を向ける前に、自分の心の中にある不義に目を向けなくてはなりません。 まず心に留めなくてはならない最も大きな不義とは、聖なる神を敬わず受け入れないことです。神に対する不敬という最大の罪に対して、当然私たちが受けるべきだった罰を、イエスが代わりに受けられたのです。私たちは監獄から身を請け出されたのです。さらにイエスは、ご自分の義を、主にある私たちに着せてくださいました。これらすべては、世の罪のためにイエスが十字架で死なれたときに起こったのです。神のひとり子なるイエスの死と復活を通して、究極の正義が現されました。この神の義こそ、人生を永遠に変えることができ、また真の自由と解放をもたらすことのできる正義なのです。 このようにしてイエス・キリストにあって私たちの悪と不義に解決がもたらされたわけですが、それでは、キリストへの信仰を持たない人々はどうなのでしょうか。それについては次に触れます。
世の終わりの審判という神のさばき 詩篇73篇の著者は「悪者の栄え」を理解するのに苦しんでいますが、同じ詩の後半で、慰めを得て次のように言います。「神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った」(詩 73:17)。つまり、悪者のあの世での一部始終を知ったということです。すべての悪に対するさばきの日が訪れます。その日には、それぞれの悪に応じ、ふさわしい義のさばきがなされるのです。イエスは「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです」(ヨハ 5:29)と言われました。神の御子を信じなかった者、イエスを信じることによる罪の赦しを得なかった者は、最後の審判の日にさばかれるということを、福音は明確に述べています。一方、イエスを信じた者は、罪の赦しを得るだけではなく、復活と永遠のいのちを受けるのです。 では、主が再臨されてすべての罪がさばかれるのなら、私たちは何もせずにただ待っていればよいのでしょうか。そうではありません。神は私たちに、神の義を実現するみこころに加わることを望んでおられます。それならば、現代の教会の使命とは何でしょうか。この不条理な世にあって、教会はますます愛、信仰、希望の歩みに励むことにより、神の国がどのようなものであるかを世に体現していく必要があります。 悪と不正を目にしたとき、私たちが即座に取るべき反応とは、信仰をもって神に目を向けることです。世の中や他者の不正について考えるよりも前に、私たちはまず、自分自身が神の前に犯した不義について対処するべきです。それは、あなたが生涯を通じて犯す罪のすべてを、キリストは赦してくださるという信仰から始まります。世の中が悪で満ちていることは確かな事実ですが、イエスは「兄弟の目のちりに目をつけるよりも、まず自分の目の梁を取り除く」ようにと言われました。偽りのない心で自分を調べてみるなら、自分のうちに大きな悪があることを発見するのです。私たちはそれを捨て、イエスの足もとにひれ伏さなくてはなりません。 悪と不正を行う者を見るとき、次に取るべき反応とは、彼らが神に望みを置くようになるよう祈ることです。パウロは「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」(Ⅰテモ 6:10)だと言っています。これは、人身売買を行う者たちの強欲という動機の大部分を説明するものであると言えます。イエスはこのように説いた後、続けて「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」(Ⅰテモ 6:17)と言っています。ですから、私たちは、人身売買や性を搾取する者たちが、彼ら自身を支配している強欲や歪曲した情欲から解かれ、神に望みを置くように祈らなくてはなりません。十字架に目を留め、そして最後の審判に目を留めながら、私たちは、彼らがイエスの救いの知識へと導かれるように、福音の力と恵みを体験することによって変えられるよう祈らなくてはなりません。 悪と不正を行う者を見るときに、取るべき三つめの反応は、被害を受けた人々への愛です。教会が正義をもって戦う動機は、愛であるべきです。神への愛、そして隣人への愛こそが、良い行いをする動機であるべきで、私たちはそのために貧しい人々に衣食を分け与え、人身売買の被害者のために戦うのです。愛、いつくしみ、施しが神の正義です。すなわち、神の国の義とは、ただ律法を掲げるだけではなく、弱い人々、倒れる人々を気遣うことなのです。こうした義の活動こそが、隣人へ愛を示すことのできる道であると思います。 「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ 6:8)。神の義はどこにあるのでしょうか。イエス・キリストとつながる私たちのいのち、生き方の中に、世は正義を見るのです。
エディ・ビョン オンヌリ教会英語礼拝部の担当牧師。トーチトリニティ神学大学院教会実用神学教授。『リビングライフ(英語版)』編集長。「HOPE Be Restored」(世界中の人身売買を終結させる働き)を設立。バンクーバーのリージェント・カレッジで牧会学修士課程修了。ボストンのゴードン・コンウェル神学校で牧会学博士課程修了。
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