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十字架から地の果てに向かう福音
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聖霊によって世界に散る「使徒の働き」のような教会 |
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オンヌリ教会 主任牧師 イ・ジェフン
教会は、神の召命を受けた共同体です。「教会」と翻訳されるギリシャ語「エクレシア」は、「呼び出された人々」という意味です。今日の教会の危機は、教会とは何かというアイデンティティを、正しく悟ることができなかったために起こっています。「教会」が制度や組織のようにとらえられ、建物と同一視されたりもします。多くの聖徒たちが、自分が「教会」として召され、選ばれたということを悟ることができず、自分が「教会」を選んだと思って信仰生活をしています。それで、召してくださった方を見ることができず、自分が主導する信仰生活をしているのです。 宗教改革者マルティン・ルターは、「エクレシア」という単語が「教会」と訳されたことへの問題を提示しました。それで、自ら翻訳したドイツ語聖書では「エクレシア」を「教会」ではなく「共同体(Gemeinde)」と訳しました。教会は生きた人格の共同体であり、いのちの共同体であるということを強調するためです。今日一般的になった教会という用語を捨てることは難しいと思われますが、マルティン・ルターの深刻な悩みを胸に刻む必要があります。 教会は、神の召しに従って散る共同体です。神の召しは、結局散るための召しです。使徒の働きに現れた初代エルサレム教会は、散ることを願いませんでした。ピリポなど、聖霊に満たされた一部の聖徒たちが散って福音を伝えましたが、教会全体としては、聖徒たちが散って福音を伝えたりはしませんでした。使徒の働き1章8節にあるように「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」散って福音を伝えなければなりませんが、聖徒たちはむしろ、集うことを好みました。互いに愛し合い、仕え合う共同体だったからです。ところが、ステパノの迫害を皮切りに、エルサレム教会に迫害が始まったとき、エルサレム教会の聖徒たちは散るほかありませんでした(使 11:19)。迫害がなかったら、エルサレム教会の聖徒たちは散ることはなかったかもしれません。しかし、神はこの迫害を通して驚くべきみわざをなさいました。散らされたエルサレム教会の聖徒たちが福音を伝え始め、その福音を通して神の召しを受けた教会が生まれ始めたのです。 散らされた聖徒たちは福音を伝えましたが、限界もありました。ことばと文化的な限界のために、ユダヤ人にだけ福音を伝えたのです。しかし、キプロスとクレネ出身の幾人かの聖徒は、アンテオケに行ってギリシヤ人にも福音を伝え始めました(使 11:20)。主の御手が彼らとともにあり、多くの人が主のもとに立ち返りました。散らされた聖徒たちを通して、ことばと文化を越え、福音が伝えられ始めたのです。これによってアンテオケ教会が生まれました。 聖霊は、使徒の働きに現れた教会が、エルサレム教会からアンテオケ教会に広がるよう働かれました。聖霊の風は、教会が一所に、一つの共同体として留まっているようにはせず、聖徒たちが散って福音の主人となるようにします。聖霊が導かれるままに従い、散らされなければ、時には聖徒が望まない環境を作ってでも散らされます。 今日の教会の聖徒たちは、バベルの塔を築いたノアの子孫のように、散らされないようにしようとしています。ことばと文化を超え、他民族に向かって出て行かないのです。教会の問題はここから始まります。教会が世界に向かって散らないとき、それは教会の本質に逆行することなので、必ず問題が生じます。教会がバベルの塔のようになってしまうのです。 しかし、教会が聖霊に拠り頼み、導かれるままに自発的に散って働きをするとき、教会はさらに強められ、神の恵みが豊かに流れます。散るとは、必ずしも多文化圏の宣教師として海外に出て行くことだけを意味しているのではありません。教会という垣根の中に閉じ込められず、世に遣わされた者として散らされた聖徒になることです。自信のある領域でキリストの使徒として出て行き、受けた祝福をほかの人に流す管となることです。 使徒の働きのような教会とは、召命を受け、世に散り、福音を伝える共同体のことです。召された使命に忠実であるとき、教会は教会らしくなり、世に光を放つことができます。日本の教会が陥りやすい落とし穴は、聖徒の数が少ないからといって、世界に出て行く使命を後回しにしていることです。聖徒の数が少なくても、その少ない聖徒たちから始めなければなりません。そうすれば、教会は健全に成長し、神の力を体験することができるでしょう。オンヌリ教会を創立したハ・ヨンジョ牧師は、開拓初期に、自身が受けるべき謝礼金を宣教師を派遣するためにささげました。宣教は、教会が成長した後ではなく、小規模から始めなければならないことを示したのです。神の召命にふさわしい教会として御心に従うとき、教会はすばらしい奇蹟とリバイバルを経験することになると信じます。
イ・ジェフン ニュージャージー初代教会元主任牧師。 米国トリニティ神学大学(修士課程)修了。 ゴードン・コンウェル神学大学(博士課程)修了。 現在、オンヌリ教会主任牧師。
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