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新しい時代に向けた新しい牧会を
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説教を目的とせず説教に進むQT |
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アナトーレ代表牧師 イ・ヒョク
個人の黙想であるQTが、どうしたら説教にまで発展するでしょうか。QTをしながら説教まで考慮する人は、ほとんどが牧会者でしょう。しかし、この記事は、QTの分かち合いをしようとする人にも役立つかと思います。スモールグループでの分かち合いも、説教も、個人がみことばを読んで理解し、黙想したものを伝えるという点では同じだからです。 正しい黙想と説教は、みことばに基づくもののみ可能です。みことばと関係のない考え、もしくは自分勝手に理解して行った黙想や説教は、それ自体に生命力がありません。いくら論理的で妥当な構成であったとしても、神のみことばである聖書に基づいていないなら、ただの人間的な考えにすぎません。どんな些細な意味や主張でも、聖書から始まるとき、人と世を動かす真理になるのです。 1. はじめから説教を目的としてQTをしてはならない理由 説教は、一見すれば聖書の内容を講論するものですが、本質上は神からいただいたみことばを伝えることです。つまり説教者は、説教の前に、まず神から自分へのみことばをいただかなければなりません。説教者は、自分に語られたみことばのみ伝えることができます。ですから、17世紀ピューリタンの神学者で、牧師でもあるジョン・オーウェンは、説教者として次のような座右の名を持っていました。「自分のたましいの中でする説教だけが、人に影響を与えられる。」 説教者は聖書を読むとき、説教の準備に関心をおいています。説教という実用的な目的のために聖書を読むときは、自分のためのみことばとして受け取ることが難しくなります。説教の材料を探そうとし、聴衆の反応に敏感になり、聖書が語ることよりも、説教者自身が言いたいことを探そうとしがちです。 説教者は、みことばの前では説教者ではなく、ひとりの聖徒として立つべきです。人のためではなく、自分のための、自分に向けられたみことばとして聖書を読まなければなりません。QTの最大の長所は、聖書を読む人を神のみことばの前に立たせるという点です。自分のために聖書を読むとき、はじめて神の御心がわかり、そのみことばの力の前でひざまずくことができます。そうすることで、神の御心を知り、自分を省みて悔い改め、進むべき道に導かれ、信仰をもって従い、みことばが与えてくれる力と祝福を味わうことができます。これは、説教者がまず自分に説教をしたことになります。その後でほかの人に説教することができるのです。
2.説教に進むQT ① 詳しく読み、黙想する 聖書を説教のためだけに読まないようにするために、「説教を目的とせず、説教に進むQT」というタイトルをつけました。説教がうまくなりたいですか。まず、神のみことばを聞くために、つまり自分のために聖書を読みましょう。自分にとっていのちとなるみことばは、当然ほかの人にもいのちとなります。 QTで最も重要なことは、「詳しく読む」ことです。みことばの未熟な理解や間違った適用は、ほとんどの場合が聖書をしっかりと読んでいないからです。読んではいても、十分に読まずに意味を推し量り、読むのを中断する場合が多くあります。 詳しく読むとは、与えられた本文全体を、繰り返し十分に読むことです。一つ一つの単語や文章など、本文の表現を細かく調べます。どの単語や表現も、無意味であるかのように何となく読み過ごしてはいけません。すでに慣れた本文であっても、初めて読むかのような姿勢で、くりかえし読んでください。このように本文全体を詳しく読むとき、最も重要な意味と、本文が語っている重要なメッセージをバランス良く把握できます。また、その本文に対する先入観も避けられます。 一定量の聖書の本文は、その中にあるすべての単語と句と文章が合わさって意味を作り出します。もし急いで読み、本文の内容の一部だけをもって理解するなら、本文の意味を十分に理解できず、歪める可能性があります。
② 中心思想を中心に黙想する 聖書を詳しく読んでいると、繰り返される表現や強調される内容などがわかります。そうすると少しずつ、さまざまな強調点や内容上の展開が一つの主題に集まってきます。一定量の聖書の本文には、一つの中心思想があります。本文のすべての内容を詳しく調べながら、中心思想を理解し、適用しようと努力する必要があります。自分が気に入ったからといって、適用しやすいからといって、あるいはすぐに力になるからといって、その本文の最も中心的なメッセージである中心思想を無視して、部分的な表現や内容によって適用するのは、正しいQTではありません。中心思想を把握したなら、もう一度中心思想の観点から本文全体を読みましょう。そうするなら、本文の些細な内容も、すべて中心思想とつながっていることがわかり、それにより中心思想をさらに豊かに理解し、より深い黙想に入ることができます。
③ 具体的に適用して黙想する QTの花は適用です。適用しないQTは、農夫が1年間労苦して得た実を味わわないことと同じです。適用はほかの人ではなく自分に行い、具体的にする必要があります。そのみことばの意味と力を味わえるからです。適用するみことばが蜜よりも甘い(詩 19:10)ということを知り、ほかの人とこの喜びをともに味わおうとする意志と情熱を持つことができます。また、自分に適用してみた人は、そのみことばが、ほかの人にとってどのような点で良いのかがわかります。
3.QTから説教への転換 QTが上手くできたなら、説教準備もかなり進んだはずです。QTと説教は、さまざまな点で違いますが、意味を理解し、生活に適用するという点では同じです。 QTと説教の大きな違いは、対象が違うという点です。QTは「私」が理解して適用しますが、説教は「ほかの人」が理解し、適用するように助けます。それゆえ説教は、QTよりもさらに単純に適用できなければなりません。自分には理解できて適用できるものも、ほかの人にはそうでないかもしれないからです。説教は、聖書の本文の中心思想を主題にし、群衆に明快に伝達し(理解)、信頼できるよう説得し(信仰)、そのみことばの有益さを確信させ、適用させるものです(実践)。
① 説教の中心主題は、聖書の本文の中心思想である QTをするとき、中心思想を中心に黙想しなければならないとすでに話しました。聖書本文の中心思想は、説教における中心主題です。QTで黙想したものを中心主題にして説教ができれば、「説教に進むQT」になるのです。このとき、説教がQTと違う点は、とても単純かつ鮮明に中心主題を伝えるべきだということです。QTをするときは、あれこれ考え、自由に黙想し、メモし、適用できますが、説教で同じようにすれば、聴衆は説教者の語りたいことが何か理解しがたいことでしょう。説教はシンプルであるべきです。説教では中心主題にすべてを集中させるべきです。このために説教者は、本文にあるものをすべて語る必要はありません。説教の主題と関連したものだけを鮮明に説明しなければいけません。しばしば本文のすべての内容を説明しようとする欲に陥りやすいため、注意し、自制しなければなりません。ほかの内容は、別の機会にも伝えられるからです。 説教するとき、伝えようとする中心主題以外のものは取り除くことです。強調して言うと、説教の核となるメッセージ以外、余計なものはすべて取り除くのです。一つの点だけを語っているか、常に考えましょう。
② 説教の資料は詳細に読んでわかったこと、すべてである 説教の主題を明らかにしたなら、次に関心を持つべき領域は、どのようにそれを聞く人たちに信じさせ、信頼するよう説得するかということです。このとき必要なことは、すべての無知に知性を与える「論理」と、すべての不信を壊す、否定できない聖書本文の「根拠」です。このような論理と根拠は、すべての聖書から掘り出すことのできる宝物です。 QTにおいて、詳細に読んでわかった本文のすべての内容は、説教の主題をわかりやすく理解させ、説得するための資料です。どの単語や個所を理由や根拠として提示し、どの個所を具体的な例として示し、その主題の有益さと力として語るべきでしょうか。このとき注意する点は、聖書の本文自体がどのように説得しているかを、必ず考慮することです。 聖書本文の内容は中心思想とつながっているため、説教者は本文を十分に活用して説教する必要があります。説教の中心主題を、どのように理解させるのか、また、理解から確信へどのように進めるのか、その信仰を強めるためにどのような根拠や論理を用い、信じたことの適用にはどのような方向性を提示するべきか、抽象的でなく具体的な人生の原理となるために必要な質問をしながら、本文のさまざまな内容を説教に用いましょう。
③ 説教の適用は説教者自身の適用から始まる 説教のためのQTの価値は、おそらく適用分野で最も明らかになります。説教において具体的に適用するよう助け、そのメッセージの実際的な力を示すためには、聖書の本文とそのメッセージを長時間黙想し、適用の可能性について悩むしかありません。多くの説教者たちがこの黙想をおろそかにしているため、聴衆の適用を効果的に助けられずにいます。 しかし、まず自分に適用してQTを行うなら、適用時の心理的、かつ具体的な難しさ、適用してはじめてわかるみことばの多様な側面、適用後に受ける恵みと霊的祝福などがわかります。この個人的な適用は、すべての聴衆が適用できるように発展させなければなりません。また、さまざまな背景の聖徒たちが、それぞれ適用できるようにも拡大させなければなりません。 このように、QTでまず自分に適用し、その聖書のみことばが一個人の生活に招く意味と変化が理解できれば、その説教者は、多くの聴衆に非常に大きな霊性と変化を呼び起こす説教ができるはずです。
イ・ヒョク 総神神学校大学院卒業。現在アナトーレ代表。御言葉運動連合常任顧問。 アナトーレで神学大学院生や牧会者に聖書を教え、教会や宣教団体などで執筆、説教、講義などをしている。『リビングライフ+PLUS』執筆。
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