イ・フェソン ● 総神大学 旧約学教授
ハバクク書は、ニネベの滅亡とバビロンの登場という歴史的状況を背景としています。BC 605年頃、アッシリヤとエジプトはすでにカルケミシュの戦いでバビロンに敗北し、ユダも脅威にさらされていました。またヨシヤ王の死によって改革の時代は終わりを告げ、次第に増大する不法や不正によって社会は無秩序となり、混乱の渦が巻き起こっていました。このような暗黒の状況下、預言者ハバククは落胆し不満を抱いていました。彼は不義と罪悪が横行する時代の中、神の義に対して疑念を抱き、神に尋ねます。神の義がどこにあるのか、はたして神は義であるのか、ハバクク書は預言者が神の御前で嘆きながら提示する二度の質問(1:2~4,12~17節)と、各質問に対する神の応答(1:5~11;2:1~5)で始まります。
最初の訴え:不義なユダ ハバクク書を理解するためには、預言者の嘆きと質問に対する理解が必須です。預言者の最初の不満は、自分の祈りに沈黙される神に向けた訴えです。「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか」(1:2)。彼が以前からずっと叫び続けて質問してきたのに、神は一貫して答えてくださらないと言うのです。ユダの民は神の律法を授けられた民であり、律法に従って正義と公義が実現された社会を築いていくべきでしたが(4節)、実際のユダの状況は正反対の方向へと向かっていました。偶像崇拝や不道徳、分裂や争いが横行し、社会が罪悪によって麻痺した状態でした(3節)。悪人があまりにも多く、義人たちを取り囲んでいました(4節)。これらを見つめる預言者の心に起こったもう一つの嘆きは、義なる神がなぜ神の契約を破棄するように傍観しておられるのかということです。このような預言者の質問に対して、ついに神が応答されます。神はのちに、ユダの民の放縦と堕落を正す道具としてカルデヤ人(バビロン)を起こすと約束されます(6節)。バビロンは恐ろしく強暴で自分たちの力を自分たちの神とする人々です(7~11節)。ユダの民は自分たちよりもっと残忍で暴力的な悪しき民の攻撃を受けなければならなくなりました。
二度目の訴え:さらに不義なバビロン 預言者は神の応答に満足せず、次の質問をします。神は義であられるのに、なぜ悪しきバビロンを用いて、それよりましなユダの民を滅ぼされるのかと言うのです。もちろんバビロンは神の道具として用いられ、これを通して神はその目的を成し遂げられます。神の相続地であるユダの地は無残にも侵略されます(17節)。正義と公義を喪失し、神の国の基礎が壊されるという神の懲らしめによってユダは完全に国家を失ってしまいます。しかも邪悪で高慢で強暴なバビロンを通してそのようになるのです。神はそれほどまでに無慈悲な方なのでしょうか。 また、ハバククは義なる神がなぜバビロンの残忍さを見過ごしておられるのかと質問します。これについて神は「正しい人はその信仰によって生きる」(2:4)と約束されます。いかに時代が悪くても、正しい人はその信仰によって耐え忍んで生きなければなりません。最後には神が約束を成就され、義の国を建てられるからです。神は必ず悪人をさばかれ、義人を悪人の手から助け出されます(2:5~17)。神は義人たちが患難や逆境の中でも耐え忍び、神の御心を見極めることを願っておられます。聖なる宮におられる神は義によって統べ治められ、全地は御前で静まらなければなりません(20節)。
祈りと賛美 預言者ハバククは、祈りの中で、過去に神がなされた御業について回想します。神が出エジプトの時になされた御業は、のちに起こる出来事の兆候を知らせるものです。神がイスラエルの敵を海で滅ぼされたように、これから先悪しきバビロンをさばかれるのです(3:8~12)。神が強靭な勇者となって敵を滅ぼされ、ご自分の民を救われるのです(13~15節)。つまり落胆したり挫折することなく、のちにやってくるさばきの日が、むしろ義人たちには神の救いの日であることを覚え、希望をもって待ち望み、耐え忍ぶべきであると強く語られます(17~19節)。預言者は神の救いを待ち望み、賛美しながらメッセージを終えます。 ハバクク書は逆説的な書です。嘆きから始まりますが、むしろ神を賛美する決断と告白で結ばれています。預言者は信仰によって神に質問を投げかけ、神はあわれみによって応答されます。その過程で預言者は「正しい人はその信仰によって生きる」ことを悟ります。
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