パク・チョルヒョン ● 総神大学神学大学院 旧約学教授
創世記の重要な主題である「創造、堕落、救い」、「召命」、「祝福と因果応報」、「回復」の中で、今回取り扱う最後の部分の主題は「回復」です。前回は、子やぎを中心に展開された因果応報のなわめについて説明しました。ヤコブが父と兄をだますために用いた子やぎは、ヤコブの息子たちがヤコブをだますときに再び用いられ、また息子たちの代表であるユダが嫁タマルにだまされるのに再び用いられます(37, 38章)。このような回復のストーリーは因果応報の暗い影からスタートします。 しかし、39章から最後の50章までは、回復という明るい主題が中心となっています。この主題の核心は、次のようなことです。初めに、回復は代価を要求します。回復のためには霊的な目を持つ人が必要であり、またその人が全面的に包容することが必要で、この役割の人物はヨセフです。彼は自分が願わなかった運命、すなわち偏愛と兄たちの嫉妬の犠牲者となります。過酷な運命に見舞われますが、彼は悔しさを復讐という形で晴らそうとはせず、むしろ自分が受けたすべての苦難を、大きな救いのための神の摂理として受け止めます(45:5~8;50:20)。このような点からヨセフは「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ロマ 8:28)という使徒パウロのことばを自分の人生を通して証明して見せます。 二番目に、回復のためには、加害者が自分の過ちを悟り、心からの反省と犠牲の態度を見せることが必要です。本文でヨセフは神の大いなる摂理を悟っていますが、まだ人間的な痛みを抱えていたようです。これは彼が兄たちを二度も試したことからわかります(42~44章)。この時、ヨセフの痛みをいやす役割をユダが担当します。ユダは、父ヤコブと末の弟ベニヤミンの安全のために自分のいのちをかけます(44:18~34)。このようなユダの献身を通してヨセフは兄たちを赦し、家族全員への、神の恵みの管となる役割を果たします(45章)。まことの回復がなされるためには、犠牲者の赦しと包容だけでなく、加害者の心からの反省と献身が必要です。 三番目に、まことの回復は神のなさる御業です。神のご計画と顧みなしには、人間関係の回復はできなかったでしょう。神の恵みなくして、ヨセフがエジプトの宰相になったり、自分の家族をひどいききんや外国での困難な生活から守ることができたでしょうか。このような神の顧みは、ヨセフがエジプトに着いた時から、主の綿密な方法によってヨセフと残りの家族に与えられます。創世記39章2節から6節は、ヨセフの人生の中で繰り返される、神の不可抗力的な顧みと成功という主題のパラダイムです。①主がヨセフとともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださる(2, 3節)。②神がヨセフに恵みを与えられるのを彼の主人が見た(3節)。③その結果、主人はヨセフの手に全財産をまかせた(4節)。④ヨセフの主人が彼に全財産をまかせてから、主がヨセフのゆえに主人の家に祝福を与えられた(5節)。神の綿密な働きはその始まりからよく現れています。ヨセフの主人が祝福を受けた瞬間は、まさに主人がヨセフに「その家と全財産とを管理させた時から」です(5節)。神がそうして綿密に顧みてくださらなければ、宰相のヨセフもなく、和解の機会もなかったことでしょう。神は和解のための舞台を設け、そこに和解が必要な人々を集める綿密な演出家であられます。 神の顧みに関する、もう一つの重要な点があります。それは、神の祝福を味わい、その祝福を全世界の民に味わわせる道具としての使命を受けた約束の民が、エジプトに入るときに物乞いするような形で入らないように神がご計画されたという点です。アブラハムはソドムの王に、「糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わないためだ」(創 14:23)と言いました。創世記41章以下で、神はパロが見た夢をヨセフに解き明かさせ、そのとおりに状況を導かれた奇蹟を通して、エジプトと周辺のすべての国はアブラハムの家が受けた祝福を分け与えられる恵みを味わいました。このような回復の御業を通して、神は創世記3章15節の原始福音の種を持った一つの家族が、救いの歴史のインキュベーターのようなエジプトで、大きな民族に成長する土台を用意されたのです(出 1:1~7参照)。一粒のからし種が、鳥たちが巣を作れるほど大きく成長するように、初めはじつに小さく始まった約束の民の壮大な未来を予想させます。回復の過程で現れた神の恵みが、これらすべてを可能にします。
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