佐藤悦子 ● 多聞福音教会
自分の信仰はこれで良いのか、クリスチャンとはどういう生き方なのか、神様の子どもとして、忠実に生きるとはどういう事なのかわからなくなった時期があり、神様に祈りました。牧師先生や信仰の先輩からもアドバイスを受け、信仰生活に適用し、また良いと薦められた信仰書も読みました。しかし、頭では理解できても心は虚しいままでした。そんな時、ルカの福音書の取税人ザアカイに目が留まりました。今まで何度も説教で聞き、聖書勉強からも学びましたが、この個所を何度も繰り返して読みました。ザアカイはどんな気持ちでイエス様と会いたがったのだろう、私もイエス様と出会い、語り合いたいと強く感じ、祈りました。ザアカイの前の章ではやもめと裁判官のたとえがあって「求める事」を教えられ、パリサイ人と取税人のたとえからは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人々」とは私自身なのだと深く悔い改めました。この取税人のように、「神様、罪人の私をあわれんでください」「私は救われ罪赦された者として生きたいです」と祈りました。金持ちの議員の個所からの「人にはできないことでも神にはできるのです」というみことばは私に希望を与え、神様が私を造りかえてくださると信じました。エリコの近くで盲人をいやすところでは、「何をしてほしいのか」とのイエス様のことばに、盲人が具体的に答えたように、「神様の子どもとして生きたいです」と祈り求めました。ザアカイのように、私も喜んでイエス様をお迎えしました。ザアカイの「財産の半分を貧しい人たちに施し、だまし取った物は四倍にして返します」ということばを私はどう適用できるだろうかと祈り、今までたくさんの兄弟姉妹に優しく励ましの言葉をいただき、祈っていただいてきた事、これは私の信仰の財産だと気付き、悩む人にはみことば入りのきれいな葉書を送り、病の人には見舞って祈り、必要な時には具体的にお手伝いをしました。教会の中で私のできる奉仕を、今まで以上に喜んで祈りながらしました。心には大きな喜びと平安があり、人と比べることがなくなり、人から認められることを求めなくなり、イザヤ書43章の、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」ということばがいつも心に響いてきます。「私も神様が愛された人々を愛します」と感謝と賛美をささげ、とりなし、奉仕をしています。日々QTを通して教えられた事を生活の中で適用しながら、神様の子どもとしてこれからも成長し、仕えてゆきたいと願い、祈っています。
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