パク・チョルヒョン ● 総神大学神学大学院 旧約学教授
創世記における重要な主題は「創造と堕落と救い」、「召命」、「祝福と因果応報」、「回復」などです。今月は三番目の主題の「祝福と因果応報」について述べたいと思います。「祝福」と「因果応報」は、創世記に登場する人物の人生を貫く2本の絡み合った糸のようであり、レンブラントの人物画に描かれた光と影の対比のようです。 祝福の光と因果応報の陰が、族長たちの人生の中に共存する理由は、神が恵みの神であるだけでなく、義なる神であるからです。創世記の読者は普通「祝福」の光に注目し、「因果応報」の陰を見逃してしまいます。しかし創世記の本文を正しく理解しようとするなら、不可抗力的な祝福と徹底した因果応報という、この二つの主題をともに考慮しなければなりません。
神の不可抗力的な恵み 二つの主題の対照は、特にヤコブとその子たちの話を通してよく現れています。神がアブラハムを通して与えられた祝福の約束(12:1~3など)は、イサク(26:2~5)を経てヤコブによって成就されます。べテルで最初にヤコブに会われた神は、その祝福をヤコブにも与えると約束されます(28:13~15)。特に「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(28:15)というみことばは、祝福と恵みに対する神の強い意志表示です。 理由はどうであれ、父と兄を欺いてひどく苦しませた挙句、逃亡したヤコブに対する神のこのような好意は、行き過ぎだと感じざるをえません。しかし、このような不可抗力的な恵みは、後に展開するストーリーにおいてさらに明確になります。30章27節でラバンは「私はあなたのおかげで、主が私を祝福してくださったことを、まじないで知っている」と言っています。神はヤコブのゆえにラバンにまで祝福を与えられたようです。ラバンが逃げたヤコブを追いかけた時、神はラバンの夢に現れて害を加えないようにされます(31章)。またエサウの手からもヤコブを守られます(32~33章)。シェケムでのディナの事件(34章)により、ヤコブが危機に直面したとき、彼をべテルに再び呼んで神の前に立つようにされ、周辺の民族の脅かしから逃れるようにされます(35:1~8)。このような経験から、ヤコブは死ぬ前に「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」(48:15)と言います。
因果応報の神 不可抗力的な祝福と恵みの光の裏側には、因果応報の影が明らかに存在します。神は恵みの神であり、義の神でもあります。アブラハムと割礼の契約を結ぶ前に、神は「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」(17:1)と語られ、アブラハムを選んだ目的が、「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため」(18:19)であることを明らかにされます。このように義を重んじる神は、決してヤコブの家族の罪を見過ごされません。 神は、ヤコブの家に義を行われる通路である因果応報を明確にするため、「やぎ」または「子やぎ」を用いられます。リベカとヤコブはイサクをだます時、「子やぎ」を用い(27:9, 17)、ヤコブの子たちも、ヨセフの長服を「雄やぎ」の血に浸し、ヨセフが死んだと偽ります(37:31)。ヤコブの子たちの中で代表的な存在のユダが、タマルと寝た後に与えた代価も「子やぎ」です(38:17)。
37:32~33 そのそでつきの長服を父のところに持って行きお調べになってください父は、それを調べて、言った
38:25~26 彼女はしゅうとのところに使いをやり、…お調べくださいユダはこれを見定めて言った
左の図表を見るとヤコブが偽った話とユダが偽った話はよく似ています。 ヤコブがイサクをだます時に出てきた「子やぎ」はヤコブの家系の計略の歴史に何度も出てきて、彼らを苦しめます。罪がその人自身に返ってくることを「詩的正義(poetic justice)」と言います。これは因果応報の最も宗教的な考え方であり、ヤコブとその子たちの話の中にもかなり出てきます。この「詩的正義」は、創世記の族長たちに施された神の全面的な祝福と恵みは、自由奔放に行動する権利を与えるチケットではないことを表しています。神の民には、ただ恵みを味わうだけでなく、聖く正しい民となるべき特別な使命があるということを忘れてはなりません。今日の教会はただ恵みだけを叫び求めていますが、創世記の因果応報の主題は、私たちには聖く正しい生き方をする使命もあることを、もう一度教えてくれます。
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