|
新しい時代に向けた新しい牧会を
|
153共同体としての教会 ② |
|
「私はグラミン(Grameen)教会を夢見る」
長老会神学大学 教授 _ オ・ギュフン
教会は共同体性を回復し、その存在価値を具現化できる規模にならなければなりません 前回説明した150人の共同体のパワーは、当然教会にも適用することができます。一言で言えば、各教会は、共同体性を守りつつ生きる基本構造を兼ね備えることが何よりも大切だということです。これは聖書に出てくる初代教会の構造を取り入れることでもあるでしょう。もちろんあらゆる努力を尽くして教会を建てても初代教会の姿を100%再現するのは、主の再臨までは不可能でしょう。しかし、いわゆる改革のカルヴァン派の信仰は、絶えず聖書的な本質を追い求める姿勢を追求するという点で、進め続けるべきです。 教会が150人の共同体を維持するというのは、 決してそれ以上の規模になってはいけないという話ではありません。いくらでも150人以上の規模に成長できると思います。ただ成長できる最大限の規模があります。筆者の研究によると、その規模は1,500~1,650人を越えないのが良いという提案です。この数字は、教会の人数がどんなに多くても、共同体性を維持しなければならないという土台の上で、牧会的な解釈を経て提示した結論です。 成長できる教会の規模を1,500~1,650人として提案するのには、次のような根拠があります。牧会の核心が、教会が成長しても150人の集団が共同体性を維持することならば、重要なポイントは信徒が増えても牧師が信徒一人一人に霊的に仕えることができるかどうかということです。教会が量的に成長すれば副牧師の人数を増やしてケアすればいいでしょう。 ですが、ここで大切な点は、担任牧師と副牧師の関係性が共同体を維持するためには必要だということです。これは担任牧師と副牧師の関係がただ官僚主義的な関係になってはいけないということを意味します。すなわち、担任牧師と副牧師の関係が、師匠と弟子、あるいはメンターとメンティの関係のように、信仰的かつ人格的な関係で結ばれなければならないということです。しかし、一人の担任牧師が人格的な関係を形成しながら、霊的にケアして仕えられる副牧師の数には限界があるということに注意してください。その最大の人数は10~11人と言われています。なぜならばイエス・キリストも12人の弟子を育てただけであり、そのうちの一人、ユダへの訓練は失敗したと言えるからです。このようなわけで、一つの教会に11人以上の副牧師を働かせることは無理であるという意見が生まれます。これは一つの教会に150人の共同体が11を越えるのは良くないことを意味します。 牧会的な見方をすると、153人を153の家庭と同じように見なすことができるかどうかという質問が考えられます。一人の信徒がもう一人の信徒と交わっているとき、夫婦をわざわざ別の二人として計算する必要があるでしょうか。たとえば教会の中で信徒同士の交わりをしているとき、それが妻であれ夫であれ、片方だけ知っていても、その関係性は二人の夫婦との交わりと同様に考えられるからでしょう。もしそう解釈すると、一人が知っている個人は二倍になります。すなわち150人が150家庭になったら、共同体の人員は300人になります。ここで、配偶者一人を通じて夫婦二人を知る関係性というのが果して共同体性を維持するのに十分であるかどうかが鍵になります。 この点について正確に判断するには、今日の教会が追い求めている共同体の理想的な姿がどのようなものであるかが基準になるでしょう。教会の共同体性は、家庭あるいは個人の生活をどの程度分かち合うのか、教会で使われるお金や食品などをどのレベルで調逹するのか、そしてこの世に向けて教会という共同体が担うべき使命と献身は、どうやって果たすべきかによって決められると思います。その結果としての共同体性が、今まで検証されて来た150人の共同体性と必ず一致するとは言えません。また次の世代、すなわち子どもたちの存在を共同体生活の中でどう扱うのかという問題も、考慮すべき要素になります。 結局、教会の共同体性を維持するために何人が一番良いのかということは、明快な結論を下すことができません。まだ大変多くの要素が関係しているからです。人類学的に検証されてきた150人の共同体のパワーは、一つの地域でともに暮らす共同体を前提にしているので、現代社会での教会共同体が追求するものと同様に見なす必要はないかもしれません。したがって筆者が主張しているグラミン教会の共同体性も、どの程度のレベルの共同体を追求するべきかは、これからの牧会によって各共同体が自ら作りあげていかなければならない課題でしょう。
牧師たちの価値観を点検し、プライドと誇りを回復する事が優先されるべきです 21世紀の韓国教会の問題の大部分は、大型教会の規模に起因する問題です。その問題の核心は、まさに官僚主義だと考えられますが、大型教会の大型組職はその規模を導くために官僚体系が不可欠だからです。官僚体系こそが大きな組職を一番効率的に運営できる方法だからです。しかし官僚体系は官僚主義であるという深刻な問題を抱えています。すなわち官僚的な組職は序列意識、力、権限、義務、支配と服従、他律性、補償と競争などの価値や方法を中心にして運用されます。このような堅苦しい価値が巨大な組職を管理し維持するには効率的かもしれませんが、信仰共同体が追求する本質的な価値を実現するには、むしろ深刻な妨害の要因として作用する致命的な弱点になります。すなわち譲り合い、謙遜、思いやり、協力、犠牲などの共同体的な価値を著しく傷つけてしまいます。教会が大規模な教会になってはいけない理由がここにあります。 最近、韓国教会で、150人規模の教会に仕えるのは小さな教会に仕えるという感じを与えます。現在の韓国教会の全般的な状況や雰囲気がそう感じさせます。さらには、こんなに小さな教会が自立できるのだろうかという疑問まで抱かせます。100人前後の規模の教会を牧会する牧師たちがどういう思いで牧会をしているのかわかりませんが、多くの牧師たちはやむをえず牧会しているような気がします。信徒が少なければ、教会の成長が伸び悩むので不満を持ち、それが問題だと思ってしまいます。自分がこんなにしがない教会を牧会しているという現実を受け入れることができず、機会さえあればもっと大きい教会に移ろうとチャンスを狙っています。 果して何が問題なのでしょう。牧会方法論が分からないからでしょうか。筆者が見る限り、何よりも牧師の心構えと価値観から問題が生じていると思います。青い鳥を追いかけるように、大型教会あるいは量的な成長のみを頭の中に描いて、現実を直視していないリーダーシップに問題があると思います。 心からそのような誇張された牧会の泡を取り除かなければなりません。小さくても喜びと感謝、賛美のある、霊的なパワーがあふれる美しい教会を追求しなければなりません。私はそのような教会をグラミン教会と呼ぶことにしました。2006年にノーベル平和賞を受けた、バングラデシュのエコノミスト、ムハマド・ユヌスが初めて設立した少額信用貸し出し銀行である、グラミン銀行から取りました。グラミンという言葉は、バングラデシュ語で「村」という意味です。基本資金がなく、一生貧しさのくびきから逃れられない人々に、少額の資本を低金利で貸し出し、その金を元金とし、自立して貧しさから抜け出させるという、奇蹟の銀行です。 これからは小さくても美しい教会、そして意味のある教会を夢見る牧師たちが必要とされます。そのためには、何よりも牧会に対する明らかな召命意識と牧師としての働きに誇りを持つ牧師になる必要があります。 私は153人のグラミン教会を牧会するため、牧師の心構えが一番重要であることを主張しつつ、感動的な話を紹介したいと思います。先日テレビで、ある小さな町の手打ちうどん屋を紹介する番組を見ました。手打ちうどんという看板をかかげているほとんどの店が、実は工場で作ったものを手作りだと偽って売っているという告発の番組でした。それとともに、その番組は、直接手で作った本物の手打ちうどんを売っている、正直な食堂を取材して紹介していました。私はTVで初めてその食堂を見たとき、ただ正直に手で作っているという程度だと思っていましたが、実際はそれ以上にすばらしいお店でした。なぜなら、そこの店主夫婦がすばらしい人格の持ち主だったからです。正直で強い信念を持っている姿に心を打たれました。 50代後半の夫婦が営むその食堂は、それほど大きくはない食堂ですが、その夫婦は、自分たちが直接有機栽培した小麦を使って、料理をしていました。収獲までにさまざまな困難がありましたが、彼らは有機栽培へのこだわりを捨てることはありませんでした。またその小麦を製粉する方法も、昔ながらの方法でした。そうすることで、小麦粉の味が落ちないというのです。そして製粉した小麦粉は、味が変わらないように低温倉庫に保管していました。練った生地は一晩熟成させてから使います。たとえうどんのゆで時間が長くなったとしても、お客さんの口当たりを考えて生地にきな粉を入れるという、この方法を堅く守っていました。 その食堂がテレビで紹介される前に、料理専門家たちが客のふりをしてその食堂のあらゆることを調べ、うどんの味を味わい、最終的に良い食堂として放送に出そうと決めました。それから食堂の店主夫婦に放送の趣旨について説明し、協力を求めましたが、意外な返事が返ってきました。その夫婦は、放送に出たくないと断ったのです。その理由は、放送されると食堂が有名になって、お客がたくさん来るようになり、そうなるとより忙しくなり、またお客は料理が遅いと不平を言うようになり、お客の要求に合わせていくと結局はまともに料理ができなくなってしまい、味が変わってしまうということでした。 私はその夫婦の話を聞いた瞬間、とても感動しました。この機会に食堂が有名になり、お金をもっと稼ぐことができるにもかかわらず、この夫婦は手打ちうどんに対するプライドと誇りを持ち、それを続けて守っていこうとしました。私はこのような彼らの姿に、驚きました。 手打ちうどん屋などの自営業をしている夫婦も、自分の仕事にプライドを持ち、本質的な価値を守ろうとしているのに、ましてや神の教会に仕えている牧師たちが、神の羊の群れを養うというプライドと誇りを持つことは、当たり前のことではないでしょうか。しかし現実はそうではないので情けなくなります。牧師は4~50人の教会に仕えているとしても、神の国を立てることに召されたというプライドがなければならないでしょう。内村鑑三は、彼の生涯で8人の信徒を牧会しました。筆者は小さな教会を牧会しているすべての牧師たちに、このように叫び、チャレンジを与えたいのです。何よりもまず牧師として、一匹の羊を必死で捜す牧者の心を回復し、150人規模の教会の牧会をしながら、ただその存在だけで、この世に聖なる影響を及ぼすことができる、信仰の共同体をなしていきましょう。このような目標を持って最善を尽くすべきです。
オ・ギュフン 延世大学経営学科卒業。長老会神学大学院牧会学修士取得。Princeton Theological Seminary 相談学修士 / Chicago Theological Seminary 牧会学博士 / Northwestern University 牧会相談学博士 / 米Lakeview 長老教会副牧師、韓東大学教牧室長及び基礎学部教授、里門洞教会主任牧師を経て、現在、長老会神学大学牧会相談学教授。
|
|
|
|
|