|
マタイの福音書の恵み31
|
霊的なものを見分けなさい② |
|
オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
イエスの「さばいてはいけません」というみことばを見てきました。人は、自分の罪過を見る前に人の罪過を見、また自分の罪過と罪を悔い改める前に、人を罪に定めてさばくのに早く、それが身についているものです。ですから、イエスは「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(マタ 7:3)と言われたのです。だからといって、クリスチャンはただ沈黙さえすればよいというわけではありません。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタ 7:6)とあるように、霊的な分別力を持たなければなりません。 御使いの姿を装ったサタンの手下どもに警戒してください。まことの聖徒は、真理を愛し、偽りを受け入れてはならず、人をさばきませんが、それと同時に、不義に対しても目をつぶってはなりません。 また、さばいてはならないとは、不義を見ないふりをして、不正には沈黙しなさいという意味ではありません。何であっても極端に傾くのは危険で、本質から外れてしまいます。行き過ぎた正義感に捕らわれ、人をさばき、罪に定めることは間違っていますが、無分別に愛するのも、間違いです。義に基づかない愛は、愛ではありません。イエスの愛は、十字架によって神のまことの愛になりました。 また、イエスは毒麦のたとえを話してくださいました。育っている毒麦を抜き取るのではなく、毒麦を見極め、警戒するようにと言われました。私たちは、すべての不義の力を退けることはできませんが、警戒し、見極めなければなりません。悪者どもの中にあっても、丸め込まれてはならないのです。
後にさばきがある 次に、聖なるものと真珠とは何を意味しているのか考えていきましょう。聖なるものを考えるにあたって、まず本質的に人間には聖なるものはないという事実から出発するべきです。人は、罪と咎で死んだ存在です。人間には、本来、義も聖もありません。聖なる方は神のほかにはおられません。ですから、聖なるものとは、神に属するすべてのものを意味し、神に属する真理を意味します。神の聖なる真理から始まるすべてのものです。 真珠ということばを理解するためには、マタイの福音書13章45~46節を参考にすると、よくわかります。「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」 ここでの真珠とは、天の御国の鍵である福音のことを意味しています。私たちは、神から、聖なる真理と福音の真珠を与えられた者です。真理と福音を必要な人々に伝えるのが、私たちの使命であり、主の大宣教命令です。 マタイの福音書28章19節では、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」と言われましたが、犬や豚のような人には与えてはならないと言われました。ここに私たちの葛藤が生じるのですが、このことばの深い意味を別の聖書個所を引用しながら見ていかなければなりません。まず、これを理解するために、マタイの福音書10章14節でイエスが人々に伝道しながら人々に話されたことを見てみましょう。「もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。」 これは、平素イエスが語られたみことばとは、少し違います。つまり、福音とは、受け入れた者には喜びの知らせですが、拒んだ者にはのろいなのです。それは、マルコの福音書16章16節を見ると、より明確にわかります。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」 ある人は伝道すると、「もちろん、イエスを信じるのはいいことですよ。信じないよりはましでしょう」と言います。この人は、信じなくても大丈夫だが、信じたほうがといいと思っています。しかし、聖書はこの考え方に同意していません。信じれば救われるが、信じなければさばきがあると言っています。これは、ヘブル人への手紙9章27節に証明されています。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように。」 人は、死んだらそれで終わりではないのです。それから永遠の始まりであるさばきがあります。これはたいへん深刻なものです。これこそ、世界各地を歩き、いのちをかけてすべての人に福音を伝える理由です。 宣教師は、さびしい生活をします。覚えてくれる人も少ないものです。しかし、彼らは輝く未来の計画をすべて捨て、だれも知らない奥地へと入って働きをします。それはなぜでしょうか。「イエスを信じなければ、地獄に行く」という考えが彼らの心に迫っているからです。 しかし、この世ではどんなに伝道しても、心をかたくなにしたり、犬や豚のように聞く耳をもたない人がいます。パウロとバルナバが伝道していると、ユダヤ人たちが口汚くののしりました。そこでパウロとバルナバは、使徒の働きの13章46節でこう言います。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。」 福音を安く売ったり、妥協したりせずに、足のちりを払い落として、出て行くのです。 福音がもてあそばれないように 警戒してください 福音を伝える際は、へりくだり、最善を尽くして、命がけで伝えなければなりません。福音は代価の払われたものなので、いのちをかけて与えるものであり、妥協する対象ではありません。犬や豚に、無分別に投げ与えてはなりません。 しかし、もう一点考えるべきことは、2~3度伝道をして、また一年祈ってだめだったからと、豚だと決めつけてはなりません。ジョージ・ミュラーが、救いのために生涯を通して祈ってきた人が二人いました。一人は、ミュラーが死ぬ1カ月前に信じ、もう一人はミュラーが死んでから、1カ月後に信じました。また、ジョン・スチュワート牧師は、多くの人に会いましたが、このみことばが当てはまる人は1~2人ほどしかいなかったそうです。 私たちは、命をかけて福音を伝えなければなりません。あきらめてはなりません。私たちが祈った人は、必ず主のもとに来ます。しかし、犬や豚のような人に福音がもてあそばれたり、傷つけられたり、汚水の中に投げ入れられることがないように警戒しなければなりません。ですから、私たちはこのようにともに祈りましょう。 「天のお父様。私たちは、さばくこと、妥協すること、罪に定めることはしませんが、無分別でいることもないようにしてください。アーメン。」
写真:イ・ナムス、ジョン・ファヨン
|
|
|
|
|