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霊的な礼拝者として
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目覚めている教会 |
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日本同盟基督教団 総主事 ● 広瀬薫
イエス・キリストの「受肉」は、キリスト教の奥義である。「受肉」は、クリスマスに深く覚えておきたい大切なテーマであり、私たちの礼拝を本物にする鍵である。イエス様が「まことの神であり、かつまことの人である」方となって下さり、超越的な神様と私たち人間を結びつけて下さった。私たちの神様は遠い方ではなく、私たちの近くに共におられ、お会いする事ができ、交わる事ができ、「主と交われば、一つ霊となるのです」(Ⅰコリ 6:17)とあるように、神秘的な一致へと導いて下さる方なのだ。だから私たちが礼拝に集うのは、ただ神様を拝むためだけでなく、また仲の良い人と共に楽しむためでもなく、親しく神様とお会いし交わるためである。そのために大切な三つの要素を以下に挙げる。
(1)ご臨在なさる神様と交わる礼拝 神様とお会いし交わる時、大切な点の一つは、「神様はどこにおられるのか」である。古代教会の建物が東向きなのは、神様は東におられると考えられていたからだ。ゴシック建築が高さを目指したのは、神様は上におられると考えられていたからだ。 では、私たちが礼拝に集う時、神様はどこにおられるのだろうか。これには三つの側面がある。 第一に、神様は天におられる。天とは空間的な高さではなく、この世とは違う神様のご臨在の場である。私たちは礼拝で、この世が全てなのではなく、神の国(天の御国)という、神様の御心がなっている世界の存在に触れる。礼拝のプログラムには、地から天へという方向性を持った要素と、天から地へという方向性を持った要素があり、礼拝の中で天と地が交流するようになっている。私たちはそこで神の国を体験し、この世を全てとしない生き方に導かれる。 第二に、神様は私たち信じる者の中におられる。「聖霊の内住」は、キリスト教の最も重要な教えの一つである。私たちは礼拝で、自分の中におられる神様が、罪をきよめて私たちを新しくし、霊的な養いを与えて成長させ、イエス様の似姿に変えて神の民として完成させて下さる御業にあずかる。そして他の兄弟姉妹の中にも同じ神様がおられ、同じ御業をなさっておられるという事実に立って、お互いを大切に愛し仕え合う。 第三に、神様は私たち信じる者の集いのただ中におられる。イエス様は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタ 18:20)と言われた。私たちは礼拝で、神の家族と共に一つのキリストの体を形成し、今ここで既に神の国に生きている幸いを味わい、神様と霊的に一体となる恵みにあずかる。そのために重要な役割を果たすのが聖餐式であり、霊の糧を与えるみことばである。礼拝は牧師の講演会ではなく、生けるイエス様を囲む霊的食卓であるから、聖餐卓をイエス様のご臨在の場として大切に位置付けたい。 私たちの礼拝が、以上三つの面でご臨在なさる神様と交わる礼拝であるならば、新しい未信者が教会に来た時、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言ってひれ伏して神を拝む(Ⅰコリ 14:24~25)という、初代教会と同じ出来事が今も起きるのである。「目覚めている教会」とは第一に、ご臨在なさる神様と交わる礼拝をささげる教会である。
(2)「神の国」建設の使命を担う 教会を表す色々なイメージの中から、二つの対照的なものを挙げてみよう。①教会=ノアの方舟、というイメージと、②教会=神の国の拠点、というイメージである。どちらも聖書的で正しいのだが、内容はある意味で対照的である。①は、教会のみが救いの場であり、教会の外は全て滅びる事を表現している。②は、教会が救いの場であると共に、教会の外の全世界に救いを広げる拠点として仕える使命を担う事を表現している。教会に救いがあるという①は、キリスト者の誰もが受け止める事だろうが、教会から全世界に神の国が広がるという②を忘れがちである。全世界に神の国が広がる中心が教会であり、その教会の中心が礼拝である。教会の礼拝は地上に神の国の姿を示し、人々に経験させる場である。 筆者は最近、「日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか」という共同研究に参加した。この「なぜ」に対しては、もちろん色々な理由が挙げられるのだが、一つの重要なポイントとして、教会が神の国をこの世に現していないという要因が指摘された。礼拝が神の国を味わうものになっておらず、教会が人間的なにおいに満ちたものになっているのではないかという指摘である。これを考える一つの手がかりとして、キリスト教の「三類型」と言われるものがある。第一は、「神の国」を強調する型。第二は、「信仰義認」を強調する型。第三は、「教会形成」を強調する型。この内、日本の教会では第二、第三の型つまり「信仰」と「教会」が強調され、第一の型つまり「神の国」が強調されて来なかったと指摘されている。これらは、どれかがあればよいのではなく、三つともバランスよく兼ね備えられる必要がある。 地上の神の国を求めない教会は、極端に言えば神の国を「死んだら行く所」とし、地上に希望を持たないキリスト教となる。それは、知的な「信仰」はあっても「実践」に弱い信仰生活となる。つまり日々の生活の中で活き活きとした生きがいを味わいにくく、「日曜日の教会生活」と「週日のこの世の生活」が分離してしまう。「信仰」と「教会」と「神の国」の三者のバランスを備えた教会形成のためには、現在弱い「神の国」指向の強化が必要である。 私達は、礼拝に集められて神様と交わり一つとなり、そこから神の国を担う奉仕者としてこの世に出て行き、この世が神の国に近づくための実践を各々の持ち場で果たすのである。神の国とは、神様が創造した全ての被造物が、御心に従って、本来の姿に活かされている所である。活かされるとそこに喜びが生まれるから、神の国とは全ての被造物が喜んでいる世界である。 礼拝には、「礼拝に集められる」面と、「礼拝から派遣される」面がある。自分が神様のいのちを頂き、神のかたちを回復され、イエス様の似姿に変えられて行く、つまり自分が本当の姿に活かされるという面が一つ。そして更に、今度は自分が周りを活かす者、世界を神の国にする者、神様のいのちを広げる者として出て行って、自分が置かれた家庭を活かし、仕事を活かし、地域社会を活かす働きに仕えるという面がもう一つ。私達は、活かされて、そして活かす歩みをするのである。神の国の働きには、牧師や教職者だけでなく、信徒皆が一人の例外もなく、尊い働き人、神様の働きのパートナーとして召されている。それは、アブラハムに約束された、祝福の歩みである。「全世界はアブラハムとその子孫によって祝福される」という約束の実現を体験して生きるのが信徒である。目覚めた教会の礼拝の土台には、創造から堕罪と救済を経て神の国の完成に至るキリスト教世界観、かつ人生観に立つ、教職と信徒を共に活かすビジョンを持った神学教育が大切である。「目覚めている教会」とは第二に、「神の国」建設の使命を担う教会である。
(3)信徒が聖霊に満たされ活かされる 私たちがイエス・キリストの救いを受けて喜びに満たされ、さらに救われた後、神の国の使命に召されていると分かって生きがいを持って生きて行こうとする時、一つ大きな問題が生じる。それは、「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない」(ロマ 7:18)という問題である。「私は神の国建設に生きるのが良い」と分かっていても、それを実行する力は私たちの中には無いのだ。力が無いのに実行しようとすると、私たちは律法主義に陥り、聖書の教えに縛られた、主体性も無く喜びも無い実践となってしまう。聖書はそれを、「文字は殺す」という驚くべき言葉で表現している。この「文字」とは、旧約聖書の教えの事である。聖書の正しい教えは、私たちを活かさずに殺す力を持っている。しかし聖書はその解決を教えている。「文字は殺し、御霊は生かす」(Ⅱコリ 3:6)。聖霊の満たしが不可欠なのである。 私たちは、礼拝に集って、①正しい教えを「父なる神様」の御心として受ける。続いて大切なのは、②正しい熱源を「聖霊なる神様」の満たしによって受ける事だ。その内的力に導かれて、③正しい実践の道に「子なる神様」イエス様に従って進む。ここに、キリスト教の非常に重要な特徴である「三位一体」の神様が私たちの全ての面に関わって、私たちを活かし、ご用のために用いて下さる事がはっきりと見えて来る。こうして私たちは生きる意味が分かり、生きる力を頂き、積極的に活き活きと信仰の実践に生きる事が出来るのである。 信仰生活は救われて終わりではなく、更に救われた後、神の国の前進のために自分が豊かに活かされ用いられるという手応えに満ちた歩みが用意されている。その道を進むクリスチャン人生の中心にあるのが、私たちの礼拝である。「目覚めている教会」とは第三に、信徒が礼拝において聖霊に満たされ、活かされる教会である。 私たちは今、時代の節目に差しかかっているように思う。大震災とその後の状況は、日本が神様の御心にかなった方向に刷新されて行く必要がある事をはっきりと私達に見せている。今、私達日本の教会はしっかりと目を覚まし、ご臨在なさる神様と交わり、「神の国」建設の使命を担い、信徒が聖霊に満たされ活かされる教会として、本物の礼拝をささげる歩みを進めて行こう。
廣瀬薫 新潟県出身。1956年生まれ。東京大学工学部都市工学科都市計画コース卒業。大学時代、国立キリスト教会にて信仰を持つ。建設会社勤務8年。その後30才で献身し、東京基督神学校に学ぶ。日本同盟基督教団牧師、上大岡聖書教会・多磨教会牧師。日本同盟基督教団では、伝道局長、常任書記を経て、現在総主事。2012年より、東京キリスト教学園(東京基督教大学)理事長。日本キリスト教連合会常任委員。JTJ聖書神学院講師(刷新論)。自由学園明日館公開講座講師、羽仁もと子研究に取り組んで来た。2女1男の父。モットーは、「暮らしは低く、想いは高く」。
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