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マタイの福音書の恵み 27
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心配してはなりません ④ |
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オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
イエスは、心配してはならないと言われます。クリスチャンがすべきことは、心配する代わりに積極的に求め、捜し、たたき、天のための聖なる野望とビジョンを持つことです。
神の国 では、クリスチャンの偉大な野望とビジョンとは、どのようなものでしょうか。それは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」です。神の国と神の義を求めることについて考えていきましょう。 一つめに、クリスチャンが求めるべき最高の理想、最高の野望は、神の国です。神の国とは、神の統治と支配がある場所で、イエスを信じると行く国、永遠のいのちの国、救いの国です。主の祈りでは、御国が来ますようにと祈ります。それは、私たちの生きているこの地に、神の統治と支配がありますようにという祈りです。神の国は、最も完璧で理想的な世界です。そして、宣教と密接に関連しています。つまり、御国が来るために宣教するのです。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」(ロマ 14:17)。神の国は飲み食いし、出世し、家を建て、意気盛んにぜいたくに暮らすことではありません。神の国は、義と平和、喜びを慕うことです。イエスは、宝は地上ではなく、天にたくわえるよう言われました(マタ 6:20)。この天は、神の国を意味します。私たちは、宝を天にたくわえる人生を歩まなければなりません。
神の義 では、神の義とは何でしょう。神は義なる方なので、ご自分の民にも義なる信仰生活を求められます。神の義とは、神の統治と支配のある神の国の基本精神であり、原理です。「国」は、人が集まったからといって成り立つものではなく、国を支配する法と原理があってこそ成り立つものです。 神の国を所有した民は正しく生きなければならないというのがイエスの答えです。多くの人がクリスチャンの人生は愛だと言いますが、義のない愛は感傷的な愛に過ぎません。今日、韓国に多くの教会とクリスチャンがいても、世に良い影響力を及ぼすことができないのは、救われたという人々が義なる人生の本質を現すことができていないからです。神の義を求めることは、キリスト教精神の本質です。義から、愛と赦しと和解がなされます。まことの信仰生活とは、人生に神の統治と支配を受けることであり、同時に神の公義を実践することです。 また「神の国とその義をまず求めなさい」は、イエスが聖徒につけてくださった「世の塩と光」という呼び名にぴったり合います。「光」はクリスチャンの福音伝道の責任を意味し、「塩」はクリスチャンの社会的責任を意味します。神は、この二つの調和を望んでおられます。では、クリスチャンは何を追い求めるべきでしょうか。クリスチャンは、片手には神の国である福音を、もう片方の手には神の義である社会正義をもって、この時代のともしびにならなければなりません。 福音と社会正義が調和をなすためには犠牲が必要ですが、今日、一方では社会正義だけを叫び、もう一方では福音だけを叫ぶため、両極化現象が起こっています。イエスのみことばは、片手には福音のともしびを、片手には正義のともしびを持つとき、愛の実が結ばれるという意味なのです。また、これは神の国と神の義というみことばの中に込められている深い真理です。このようなまことの野望を持たないのならば、間違った目標を持つことになり、むなしい人生を生きることになるのです。
神のロマンス イエスは、続けて次のように約束してくださいました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタ 6:33)。これを、神のロマンスだと言うことができます。 3年半の間日照りが続いたとき、神はエリヤのために毎日カラスに食べ物を運ばせました。神は、無を有とし、不可能を可能にされます。五つのパンと二匹の魚で5千人を食べさせ、残りを集めると12かごになるようにされました。神は正しく生きる人を飢えさせません。
あすは私のものではありません 最後に、イエスは尊い励ましと忠告を与えてくださいました。 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(34節)。 どれほど多くの人が明日のことを心配し、悩んでいるでしょうか。皆さんの明日は、暗い死の陰が落ちる暗黒ですか。あるいは、燦燦と輝く虹色の約束された希望ですか。私たちにとって、明日とはどのような意味があるのでしょうか。 信仰がなければ、明日は絶望ですが、信仰があれば、明日は希望です。イエスは、きのうもきょうも永遠に同じ方です。 明日のために心配してはならないというみことばには、一つめは、明日はあなたがたのものではなく神のものだという意味があります。また、二つめは、明日は神のものだから神に明日をゆだねなさいという意味があります。つまり、明日のことを心配しながらきょうを生きるなら、明日は心配になり、明日を神にゆだねてきょうを誠実に生きるなら、明日は祝福であるという意味です。きょうを忠実に生きる人には、神が明日の祝福を約束してくださいます。一方、明日の心配のために、きょうを悲しみ、なまけて生きるなら、明日は祝福されません。きょうを喜び、感謝し、しっかり生きましょう。神が明日の祝福を約束してくださいます。 明日を祝福で約束してくださったある出来事を紹介しましょう。1812年3月12日、インドのセランポールに火災が発生しました。当時、偉大な宣教の父であったウィリアム・ケアリは、長い苦しみの中、同労者たちと聖書を現地の言語に翻訳していましたが、完成前に焼失してしまいました。翻訳原稿、辞書、文法書、インドの聖書、カナレス新約聖書、ベンガル語辞典、タイプライターまでも、火災によって失ってしまいました。彼らは、深い絶望と自暴自棄に陥りました。しかし、ウィリアム・ケアリとその同労者たちは「私たちには理由はわかりませんが、主が必ずこのことを通して良い実を結ばせてくださると信じます」と信仰宣言をしました。 その後、すぐにイギリス政府とイギリスの全教会がこの知らせを聞きました。これまで、宣教に反対し、宣教師を迫害していたイギリス教会が悔い改めはじめました。眠っていたすべてのイギリス教会に覚醒運動が起こり、イギリスが宣教の先鋒国となっていきました。これが神の御心です。 彼らが生涯をかけて労苦したものが一日にして一握の灰となったのは、のろいではありませんでした。それがきっかけとなり、眠っていた宣教のリバイバルの炎がイギリスにもう一度点火したのです。その後、聖書ももう一度翻訳され、より多くの支援を受け、より美しい実を結んだそうです。 心配しないでください。そこには、確かな意味があります。偉大な野望を持ってください。神が驚くべき奇蹟を私たちに与えてくださいます。次のように祈りましょう。「父なる神様。心配の代わりに神の国と義を求めなさいというみことばを与えてくださり感謝します。これからは、世ではなく、主を見上げながら、偉大な野望とビジョンを持つことができますように。アーメン。」
写真:イ・ナムス、ジョン・ファヨン
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