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マタイの福音書の恵み26
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心配してはなりません ③ |
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オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
祝福ある信仰生活を送るためには、この世に対する心配、特に衣食住に関する心配をしてはなりません。イエスは「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません」(マタ 6:25)と言われ、その後も心配してはならないと繰り返し強調されました。 じつに心配は、信仰生活だけでなく日常生活においても全く助けにならず、むしろ害を及ぼします。心配したからといって過去が変わったり、将来が保障されたり、現在が新しくなるわけではありません。心配をすると、目がくらみ、不信仰に陥ります。イエスは、私たちに心配してはならない理由を教えてくださっています。 心配してはならない理由 一つめに、心配はそれ自体が不信仰であり、神に対する信頼とは反対のものだからです(25節)。25節のみことばは、神が私たちにいのちを与えてくださったのだから当然食べる物も与えられ、また、からだを与えてくださったのだから当然着る物も与えてくださるという論理です。ですから、心配の問題は、環境の問題ではなく、信頼の問題なのです。同じ環境にあっても、ある人は心配し、ある人は神に感謝して御心を求めます。たとえば、火事になったとします。ある人は「もうおしまいだ」と大声で泣き叫びます。しかし、ある人は火事の中でも妻と子どもの髪の毛一本までも無事であったことを感謝し、さらに大きな祝福が与えられることを信じます。 二つめに、空の鳥のゆえです(26節)。鳥は、冬を心配して食べ物を蓄えることをせず、その日その日に自然が与える恵みの糧を食べて生きます。神が世に自然と動物を与えられたときに、その動物が食べて生きられるように造られたためです。 三つめに、心配したからといって、いのちを少しでも延ばすことができるわけではありません(27節)。つまり、心配は私たちに何の益もないということです。心配しながら朝目覚め、心配しながら目を閉じる心配症の人もいます。また、否定的な体質の人もいます。このような人は、未来を閉ざされた絶望の窓として見ているのです。しかし、これとは反対に、信仰の体質を持った人がいます。始める前からできると信じる人です。どんな危機が襲ってきても、その危機に揺り動かされたりはせず、その裏には神が自分を訓練し、悔い改めさせ、変えさせ、より新しい道に導いてくださるという約束をそのまま信じるのです。このような人は、いつもすべてに肯定的で、未来を開かれた窓として見ています。皆さんは、どのような体質でしょうか。 四つめに、野に咲いたゆりの花のゆえです(28~30節)。神は、あす炉に投げ込まれる野の草でさえも装ってくださいます。ソロモンの栄光と比較できない自然の美で飾ってくださるのです。パレスチナに咲く野のゆりは一日だけ花が咲くそうです。一日だけのいのちの花にもソロモンが持つことのできなかった栄光を着させるのですから、まして、あなたがたにはよくしてくださらないことがあるでしょうかというイエスのみことばです。 五つめに、心配は神を信じない人々、つまり異邦人の特徴だからです。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです」(31~32節)とある通りです。神がいない人には、存在に関する究極的な不安があります。死んだ後に関する答えがないのです。死に対する答えがないということは、生に対する答えもないということを意味します。その人には相対的価値はありますが、絶対的価値がないため、相対的な問題には解釈と答えがあっても、絶対的な問題には答えがありません。その人の中に神がいないため、未来についても不安で、手の中にお金や権力、コネがあれば安心しますが、それらを失うと、すぐに心配し、不安になるのです。 相対的真理には、認識や理性が関係します。しかし、絶対的真理には信仰が関係します。信仰がなければ、すべて不安になります。繰り返しますが、心配は異邦人の特徴です。神を信頼する人は、きょう死んだとしても、世界がきょう終わるとしても心配しません。では、私たちが心配せずに、希望を持って積極的に生きなければならない目的と理由は何でしょうか。イエスは、心配してはならないと言われただけでなく、33節に心配の代わりにすべきことを教えてくださいました。 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタ 6:33)。
心配の代わりに「求めなさい」 クリスチャンがすべきことは、心配する代わりに求めることです。「求めなさい」ということばは、クリスチャンのまことの生き方を表す命令です。このみことばの後、イエスは7章7節で有名なみことばを言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタ 7:7)。 クリスチャンは、心配する人ではなく、積極的に現在と未来に向かって走って行き、門をたたく人です。求めなさい。何を求めるのでしょうか。自分の持っていないものを求めなさいという意味です。捜しなさい。何を捜すのでしょうか。自分の持っていたものの中で失ったものを捜しなさいということです。たたきなさい。そして、これは、「未来に向かってチャレンジしなさい。暗い絶望の未来に向かって門をたたきなさい。そうすれば開かれるでしょう」という意味です。これがクリスチャンの生き方であり、態度なのです。クリスチャンは、決して消極的で敗北的で絶望的な立場にいる人ではありません。求め、捜し、たたく積極的な希望を持ち、未来に向かって走って行く人がクリスチャンなのです。こうして見ると「心配してはならない」ということばは消極的で、「求めなさい」ということばは積極的な意味で、クリスチャンの偉大な野望なのです。ですから、クリスチャンが行く先々で歴史は変わり、世界は変わるのです。なぜなら、クリスチャンは、ただ罪を犯さずに親切に生きるだけではなく、積極的に善を行い、未来に向かって走り、神の御国を作り出す人々だからです。また、この世の人間的な野望ではなく、天のための聖なる野望を持つ人々です。 宣教師の野望を見てみましょう。未知の国、奥地に、お金もなく、聖書1冊だけを持って、100年後にその国を福音の国にしようと入っていき、一生をささげます。福音を伝え、自分がそこに骨を埋めるなら、100年後にはその国の政治、経済、文化、社会などが大きく変わることを信じて入っていくのです。 100年前、韓国の地に入ってきた宣教師たちが見た国は、あらゆる面で絶望的で、希望の影さえもない地でした。しかし、彼らは何のために自分の骨をこの地に埋めたのでしょうか。福音を伝えさえすれば、この国は変わるという偉大な野望のためでした。そして今日、その野望は実を結んでいます。自分のいのちと職業を捨て、子どもの教育を神にゆだね、この一つの夢だけのために生涯をささげたとき、神がこの地を祝福してくださると彼らは信じたのです。これがクリスチャンの野望であり、夢です。しかし、世の人々は、食べて、飲んで、着て、出世することに野望を抱きます。そのために悩み、心配し、人格までも売って一生を終えるのです。
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