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マタイの福音書の恵み 24
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心配してはなりません ① |
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オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
心配が一つもないという人はいないでしょう。それだけではなく、何でも心配しながら生きているというのが、人生の一部となってしまっています。しかし、心配は何の役にも立たない非生産的なものです。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」(マタ 6:27)とある通りです。 心配は、信仰の反対のものであり、サタンが私たちの信仰をむしばむ手段として用いる武器です。しかし、人が一生心配の奴隷となり、心配と不安の中に埋もれて生きているのは驚くべきことです。
食べること、着ることの意味 「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか」(マタ 6:25)。 このみことばには、二つの大切な意味があります。一つめは、食べること、飲むこと、着ることは、生きていく上でなくてはならない大切なことですが、それ自体が私たちの理想や目標ではないということです。食べること、飲むこと、着ることを否定する人はいないでしょう。イエスも、否定はされませんでした。イエスは、40日間の断食の後、サタンに「この石がパンになるように命じなさい」と誘惑されましたが、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と答えられました。これは、人の肉体にはパンが必要であるが、人のたましいには神のことばが必要であるという意味です。つまり、パンも必要だが、それではたましいを満足させることはできないということです。 しかし、私たちは、知らないうちに、食べて、飲んで、着ることを非常に重要な問題として生きています。食べるために生きるのか、着ることが人生の目標なのかと問われると、そうではないと答えます。しかし、このようなものにすべての関心が集っています。どんな家に住み、どのブランドの服を着ているかによって、自分の身分と地位が決定されると考え、知らずにそれらを追い求めます。より高い地位、より多くの富を得るためにあくせくします。そのため、一流のレストランやブランドの服を求めて歩き回り、豪邸に住み、高級車を所有しようとします。そして、自分自身に「これこそが成功の証しだ」「これこそが幸せの証しだ」と言い聞かせます。 しかし、この段階に至ると、必ず心配がつきまといます。物質を追い求めると、心配と不安が積み上がるしかありません。この世を近づけると、神は遠のきます。そうすると、信仰は休眠状態になり、神に信頼を置かなくなります。自分の力でお金を稼いで、食べていこうと思うからです。教会に行かなくても罰も受けず、仕事もうまくいきます。ですから、教会に時々行くようになり、神も理解してくださると考えて自分を慰めます。「神様、この仕事がうまく行って収入が増えたら、教会に行きます」と言い訳をして取り繕います。そうしているうちに、神に対して不遜になり、高ぶるようになります。お金さえあれば、何でもできると感じ、信仰もお金さえあれば大丈夫だという恐ろしい思いに陥るようになります。 そうしていると、ある日、取り返しのつかない致命的なむちを受けます。そうなっては、どんなに泣いても、がんばっても、人に頼んでもどうにもならない、悲惨な状態に陥ります。大丈夫だと思って過ごしていた時間に、神の怒りを積み上げていただけだったのです。愚かな人は、いつかその怒りが自分に降りかかるとは考えもせず、この世と物質と心配の中で生きています。ですから、イエスは「いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか」(25節)と言われたのです。
毒薬や麻薬のような心配 25節のみことばの中で、考えるべき二つめのことは、間違った心配についてです。心配してはならないことは非常に重要なので、イエスは繰り返し言われます。「何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません」(25節)。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」(27節)。「なぜ着物のことで心配するのですか」(28節)。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい」(31節)。「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(34節)。 心配は、毒薬のようなものです。毒薬は、体にゆっくり広がり、動けなくします。また、心配は、断ち切れずに中毒になる麻薬のようなものです。ですから、富の誘惑に陥らないことと同じくらい、心配の奴隷にならないことは大切です。箴言には「心に不安のある人は沈み」(箴 12:25)とあります。よく眠れない日があるでしょうか。雑念の奴隷となり、寝返りを打ってはいませんか。脳裏にたまっていく心配は断ち切らなければなりません。サタンを追い出すように、心の中にある不安や心配を追い出してください。これは自然に消えていくものではなく、聖霊の助けによってその根源を断ち切らなければならないものです。 「あなたがたは心を騒がしてはなりません」(ヨハ 14:1)とあります。罪の性質の中には心配があります。不安や心配を抱えて生きることには意味があると感じる人もいます。このような人は暗やみの中にいて、太陽の喜びを味わうことができません。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリ 4:6~7)。 私たちは、問題のために心配するのではなく、不信仰のために心配するのだということを知らなければなりません。不治の病を患っている、食べる物がない、社会に捨てられた、刑務所の中にいるという環境的な原因のために心配するのではなく、心配の本質は神がおられないという不信仰のためなのです。神と親しい関係にいるなら、イエスが自分のうちにおられるので、どのような環境でも心配しなくなり、どんな危機の前でも、不安と恐れに震えることはないでしょう。パウロはイエス・キリストと日々ともにいたので、牢獄の中にいながらも「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリ 4:4)と言うことができました。 また、パウロがローマに向かう船に乗っていると、ユーラクロンという暴風に見舞われました。その時、多くの人が溺死するような状況 でしたが、パウロは平然として、「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失うものは一人もありません」(使 27:22)と言いました。激しい暴風に見舞われて、死にそうな状況の中で、パウロは神が言われたとおりになると信じ、心配しませんでした。 私たちに安心と平安があるかどうかは、私たちに今、神がおられるかどうかによります。心配は、神を信頼せずに、自分の知識や経験に拠り頼むときに生じます。ですから、イエスは、心配してはならないと言われ、続けて「信仰の薄い人たち」(30節)と嘆き悲しまれました。心配をする人は、信仰の薄い人です。信仰の薄い人は、心配するほかないのです。
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