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マタイの福音書の恵み 23
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敵に関するイエスの解釈 ④ |
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オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
クリスチャンのアイデンティティー クリスチャンは「新しく生まれた人」「新しく造られた者」「神の子ども」「聖なる民」と言われます。 まことのクリスチャンとは、どのような者でしょうか。それは、敵を愛し、迫害する者のために祈る人です。これは明らかにイエスにあってすべてのクリスチャンができることであり、私たちはその力を持っていると信じなくてはなりません。このように見ると、クリスチャンは少し並外れた人かもしれません。確かにそうです。クリスチャンは明らかに世と区別され選ばれた人です。クリスチャンは世の人々と考えが違うべきであり、世の中で生きていても世の方法に流されてはなりません。これが、マタイの福音書5~7章で、イエスが継続的に言われている一つの主題です。 聖書にはイエスを信じる人を説明したいくつもの表現があります。一つめに、ヨハネの福音書3章3節と7節を見ると、イエスを信じる人を指して「新しく生まれた人」と言っています。 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハ 3:3)。「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません」(ヨハ 3:7)。 「新しく生まれた」ということばは、霊的に再び生まれたということを意味します。つまり、二度生まれた人を意味します。ここで、一度生まれた世の人とクリスチャンは違うということがわかります。 二つめに、クリスチャンは「新しく造られた者」であるとあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリ 5:17)。 古い人ではなく、新しい人であり、外の人ではなく、内の人です。敵を赦し、愛することのできる新しい被造物です。 三つめに、クリスチャンを指して「天の民」「神の子ども」と言っています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハ 1:12)。「あなたがたは、もはや他国人でも、寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」(エペ 2:19)。 四つめに、クリスチャンは「神と和解した聖徒」です。じつに、クリスチャンは聖なる民です。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(Ⅰペテ 2:9)。私たちに、このような誇りと自負心はあるでしょうか。
悪を善で報いる人がクリスチャン しかし、ある人は世に捕らわれ、情欲の奴隷となり、サタンの奴隷となりながら、「牧師は教会で生活していますが、私たちは世で生きているのですから、罪を犯します。聖日に教会に出席するだけでも幸いであり、メッセージ中に居眠りしないのが奇蹟です」と言います。このような人が、どのように敵を愛することができるでしょうか。彼らは、どれほど自分をみじめにしているでしょうか。このような人は、モーセに従って葦の海は渡っても、食べ物がないと抗議した人々と同じであり、モーセが40日間山で神のみことばを聞いている間に金の子牛を造って、今日ここまで私たちを連れ上った神だと踊る人々と同じです。このような人は、危機の前で否と言えず、真理の前で真理を認めることのできない人です。これは、まことのクリスチャンの姿ではありません。 クリスチャンは、パウロのように「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」(Ⅰコリ 15:55)と叫び、どのような困難に直面しても簡単に屈服せず、死と絶望の壁の前にひざまずかない人です。生きるのも主のために、死ぬのも主のために、ただ主のために喜んで生きる人がクリスチャンです。また、生と死を越え、この世で旅人のように生き、欲と罪に捕らわれて生きない人、最後まで主のためだけに生きようとする良心を持つ人がクリスチャンなのです。 聖日に教会に来て、適度ななぐさめを受けて帰ろうと考えないでください。牧師は、あなたを適当になぐさめ、気分を良くさせることばを言うこともできます。しかし、それはあなたを殺すことです。主が望まれる所まで、私たちは行かなくてはなりません。そうするならば、私たちも生き、世も生き返らせることができます。「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか」(マタ 5:46~47)。 このみことばは、自分によくしてくれる人だけによくすること、つまり、ギブ・アンド・テイク式の愛には、何の報いもないというみことばです。また、自分の兄弟だけにあいさつするなら世の人と違いはないというみことばです。何か違う点がなければ、変化を与えることができません。次のように言った人がいました。「善を悪で報いる人は罪人、善を善で報いる人は良心のある人、悪を善で報いる人はクリスチャンである。」
あなたはだれに似ましたか イエスは、私たちに最後の基準を設定してくださいました。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタ 5:48)。 これはクリスチャンの人生の標準です。このように生きることができないからといって基準を崩さないでください。神は、私たちはこのように生きることができると言われます。これが神の子どもになる特権です。なんとすばらしいことでしょうか。 子どもは親に似ます。私たちは神の子どもなので、私たちの中には神の姿があるのです。つまり、イエスを信じる人はイエスに似なければならないのです。40歳を越えたら、自分の顔に責任を持つべきであるとよく言います。あなたは、自分の顔に責任を持てますか。どのような化粧をするか、どのような服を着るかは大切ではなく、だれに私たちの顔が似ているかが大切なのです。
イエスのように行動しましょう 神の完全さとは、成熟を意味します。未熟な人はいつも自分のことだけを考えますが、成熟した人はほかの人のことも考えます。クリスチャンは、未熟な人のままでいてはなりません。また、ここで言う完全さとは、神の基準を意味します。神は、私たちが堕落した天使の姿で生きるのを望んでおられません。神は、私たちが王の子どもとして、神の性質につらなる本来のアダムの姿で、気高く生きることを望んでおられます。その基準が、神の完全さなのです。 神の完全さを、そのまま表現してくださった方が、唯一なるイエス・キリストです。神が完全なようにあなたがたも完全でありなさいというみことばを、別のことばで表現すると、「イエスのように考えなさい」「イエスのように語りなさい」「イエスのように行動しなさい」となります。神は、私たちを神の御子のかたちに似ていくように決められ、召され、義とされ、栄光から栄光へと変えられます。 皆さん、イエスに似ていくことを願いますか。敵を愛してください。そうすれば、イエスのかたちが私たちの中に現れることでしょう。私たちを悪く言い、のろい、迫害する人のために祈ってください。そのようにする時、人々は私たちの顔から、イエスの顔を見ることでしょう。
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