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マタイの福音書の恵み21
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敵に関するイエスの解釈 ② |
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オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
一般的な恵みと救いの恵み 「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタ 5:45)。 神は、クリスチャンの農場だけに太陽を昇らせてくださるわけではありません。クリスチャンの病気だけをいやし、100歳まで生かしてくださるわけではありません。神の創造の祝福は、だれにでも臨みます。これが一般的な恵みであり、創造の恵みです。無神論者は、これを偶然の産物や自分の努力、運と考えますが、クリスチャンは、これを神の摂理であり、恵みであり、祝福であると信じるのです。 では、クリスチャンだけが受ける特権と祝福は何でしょうか。それは救いの恵みです。一般的な恵みは、だれもが所有し、味わうことができますが、救いの恵みはそうではありません。イエスが来られて、人類の罪を負われ、十字架で死なれ、三日目によみがえられ、昇天された、これは救いを受けた者だけが信じることができる真理です。私たちは、自然の恵みだけでなく、神がくださった救いの特別な恵みを受けました。ですから、この世で受ける恵みにも感謝すべきですが、私たちがイエス・キリストを信じたことにさらに感謝すべきです。私たちが神の子となり、栄光ある救いの働きのために献身したのは、クリスチャンだけに与えられる驚くべき祝福なのです。
敵までも愛することができる心 「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタ 5:44)。救いの祝福の中でも最も尊い祝福は、敵までも愛する心と、私たちを迫害し苦しめる人のために祈ることができる心です。この二つの心を持つことができるならば、その人はイエスを信じる人として最高の祝福を持ちます。敵までも愛することができる祝福には、二つの大切な意味があります。 一つめは、クリスチャンには隣人がいるだけで、敵はいないということです。どのように敵を愛することができるでしょうか。敵のように感じるのは、間違った現象であり、実体ではありません。別の角度から見てみると、激しく憎んでいた敵がそれほど敵ではなく、立派だと考えていた人が普通の人であったり、とても気の毒な人であると考えるようになります。 イエスは、十字架で死なれるとき、自分に釘を打ち、頭にいばらの冠をかぶせ、むちで打ち、あざけり、つばを吐き、頬を打つ者たちをのろわず、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言われました。 韓国のソン・ヤンウォン牧師は、日本帝国時代に神社参拝をしなかったために獄中生活を何度も送り、解放後にはハンセン病患者のために愛養園で牧会をしました。1948年10月21日、共産党による麗水・順天市反乱事件で、二人の息子が反乱軍の一人であったアン・ジェソンに捕まり、拷問の末、銃殺されました。その後、反乱は鎮圧され、アン・ジェソンは捕えられ、銃殺されることになりました。このとき、ソン牧師は、彼のために恩赦運動を行い、死刑から救い出しました。それだけでなく、アン・ジェソンを自分の養子にし、ソン・ジェソンとして戸籍に入れました。しかし、不幸にも、2年後の1950年の朝鮮戦争の時に、ハンセン病患者たちを残して避難しなかった牧師は、同年9月13日共産党によって捕まり、28日銃殺に処せられました。ヤン牧師の姿こそ、キリスト教の本質であり、愛ではないでしょうか。 愛のない正義は、人を殺します。神の愛の前では、だれも敵になることはできません。私たちは、北朝鮮の金正日総書記が亡くなるのを望むのではなく、彼が悔い改めることを望むべきです。私たちの人生を台無しにした人も、考えてみればあわれな人です。彼らも、私たちが赦し、祝福し、祈るべき人なのです。 罪を憎んでも、罪人はあわれんでください。サタンを憎んでも、サタンにしいたげられている人はあわれんでください。私たちが敵だと考えていた人は、敵ではなく、心から愛すべき対象なのです。なぜ、その人は私たちの敵になったのでしょうか。その人を愛すべき時に、私たちが愛さなかったからかもしれません。
殉教する愛 人は自分に良くしてくれる人を愛し、美しく魅力的な人を愛します。愛する理由をどこにも探すことのできない対象に、いのちをささげて最後までひたむきに愛するのは、人間には不可能なことのように思えます。しかし、イエスを信じる人だけは、これを行うことができます。これが殉教です。 信仰の先達には、このような愛を持った人々がいました。100年前、韓国に福音を伝えるために自分の国を後にし、宣教師として来た偉大な方がいました。彼らは、自分の教養と富と成功を捨てて、見知らぬ地である韓国に入ってきたのです。彼らが十字架でイエスの愛に直面したとき、そのように生きるしかありませんでした。しかし、現代人がイエスを信じる姿を見ると、せいぜい病気が治ること、成功すること程度の信仰のレベルに過ぎないことが多いようです。キリスト教には、新しい奇蹟が必要です。十字架の愛、敵までも愛する無限の神の愛を私たちが持ち、実践しない限り、キリスト教はもうこの時代の希望になることはできず、この時代を変えることもできません。 愛のない批判、愛のない忠告、愛のないむちは人を殺す毒薬のようなものです。しかし、私たちは責任のない批判、責任のない冷笑、責任のないむちをよく使っていないでしょうか。自分とは違うという理由だけで、自分の考えと違うというだけで、私たちの口からはどれほど多くの批判が出てくるでしょうか。ほかの人を批判する思いが起こったとき、「あなたに批判する資格があるのか。あなたは、その人をそれだけ愛したのか」と自問するなら、口から批判のことばがなくなるでしょう。敵まで愛せなくても、まず私たちのことばを祝福のことばに変える必要があります。実際、人をなぐさめ、励まし、赦し、立てることばは、少なくありませんか。人が失敗した場合には、批判するよりも、私たちがそれを覆う心を持つべきです。ある有名な当代の文人がこのように言いました。「実践する愛は、空想的な愛よりもはるかに多くの代価を払わなくてはならない。」
神の愛の力が可能にします 愛を実践する場合、つらい代価を多く払わなくてはなりません。では、どのように主のこの命令に従うことができるでしょうか。聖霊の愛のみことばを受け入れてください。「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ロマ 5:5)。また、次の6節のイエスの愛がこれを可能にします。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」最後に、8節の神の愛がこれを可能にします。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」 私たちも、敵を愛するところまで進みましょう。神の愛の力を借りてください。そして、求めてください。
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